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昔の新聞点検隊

1909〈明治42〉年3月29日付 東京朝日朝刊3面拡大1909〈明治42〉年3月29日付 東京朝日朝刊3面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

●天主教徒としての黒田如水

▲如水公三百年忌 黒田如水公は黒田家の祖先にして英名史上に赫々たるは世人之を認知すと雖も公が天主教の信徒にして其帰依せる宗教の真理啓発の為めに当時に在って最も熱心なる行道を顕したる一事に至っては西洋人は之を知るもの多きも我邦人は却て之を知らざるもの多し 恰も好し本年は公の三百年忌に当り其後裔黒田侯爵は来る四月を以て旧里福岡に盛大なる祭典を挙行すと 依て前に公が一代天主教を確信して変らざりしと如何に其宗教を保護せしかを述べんとす

▲如水天主教に入る 今を去る五六年前「ゼイ、クリスチャンダイメヨウ」と題する一書を著はしたる外人あり 取って一読するに十六世紀に於る此等総ての耶蘇教信奉者たりし大名諸侯の事跡に就て詳細記載する所あり 今は之を引証とせん、往時宣教師が著述せる最初の書籍を一見するに天正十年の頃太閤秀吉大阪在城の時に当り大名諸侯并に諸士の天主教に帰依したるもの多かりしが当時は宣教師等の巡錫伝道するよりも寧ろ各信徒等が熱心伝道に従ひたる者多し 当時摂津国大槻の大名にして高山右近太夫といふ人篤信者なりしが此人の率先伝教に勤めたる結果新に天主教に入れるもの甚だ多く小西行長、蒲生氏郷、黒田孝高及秀吉昵近の医なる今大路道三等皆其誘引に依りしなり 当時黒田孝高は騎馬軍の大将たり 而して孝高は筑前国黒田村に生れたるが曩に織田信長の為に滅びたる佐々木氏の裔にして幼時播州姫路の大名なりし小寺職隆の養子と成りたり 故に往時宣教師等の著書には小寺と記載せり 而して小寺職隆は秀吉の為めに敗亡せしが孝高は其姓を更めて黒田を称し秀吉に属せるなり

(後略)

(1909〈明治42〉年3月29日付 東京朝日 朝刊3面)


【解説】

 過去3年、NHK大河ドラマの舞台に関連した昔の記事を紹介してきました(過去の記事はこちらをクリックして下さい)。今年の「軍師官兵衛」でも、と探してきたのが冒頭の記事です。300年忌を記念して、主にキリシタンとしての黒田官兵衛(1546~1604、隠居後の呼称は「如水」)を中心に紹介しています。

「天主教徒としての黒田如水」の記事全体拡大「天主教徒としての黒田如水」の記事全体。長い記事なので、冒頭の赤い部分だけ紹介しています

光雲神社の遷座にあわせて官兵衛の300年祭が行われたことを報じる記事拡大別記事1 光雲神社の遷座にあわせて官兵衛の300年祭が行われたことを報じる記事=1909年4月2日付東京朝日朝刊2面
 いつもの点検の前に、初っぱなからまず疑問です。官兵衛の没年は1604年なのに、なぜこの年(1909年)に300年忌なのでしょう。数日後の別の記事(別記事1)を見てみると、官兵衛と、その息子長政をまつる光雲(てるも)神社の名が見えます。福岡県立図書館に尋ねたところ、所蔵の「光雲神社々誌」には、このとき「御遷宮」があり、あわせて「如水公三百年臨時大祭」を行った、との記述があるそうですが、経緯にはふれられていないとのことでした。

 別記事1にも確かに「遷座」とあります。光雲神社が別の場所から現在地(福岡市中央区の西公園)に移ったのだそうです。福岡市博物館の野島義敬学芸員によると、遷座にあわせたしかるべき祭典を開くために、数年前だったものの「没後300年記念」を前面に出したのかもしれない、とのことでした。「臨時」とあるのもそういう理由からかもしれませんね。

 さて、点検に入りましょう。

 官兵衛の「後裔(こうえい)」の「黒田侯爵」が、300年忌の祭典を催す、とあります。いつもの通り、人名はフルネームが原則。ここは黒田長成(ながしげ)のことでしょう。黒田家は江戸時代、九州・福岡藩を治めていましたが、長成は最後の藩主の息子。官兵衛から数えると、14代目の当主となります。

 文中に何度も出てくる「天主教」はキリスト教のこと。しかし1カ所だけ「耶蘇(やそ)教」がありました。これもキリスト教をさす言葉ですが、統一したいところです。

 「ゼイ、クリスチャンダイメヨウ」という外国人が記した本を参考にする、とことわっています。著作物を紹介する時は著者名も併記するのが今は普通ですので、指摘しましょう。

 実は、参考文献が明示されていると校閲記者としては大助かり。点検効率が大幅にアップします。新聞社には小規模ながら書庫があるので、締め切りまでの限られた時間に走って探しにいくこともしばしばです。

 せっかくですので今回も探してみました。著者も分からず、古いものなので難航しましたが、国立国会図書館でそれらしき本を見つけました!

ミシェル・スタイシェン著「THE CHRISTIAN DAIMYOS」。国立国会図書館蔵拡大写真1 ミシェル・スタイシェン著「THE CHRISTIAN DAIMYOS」。国立国会図書館蔵
 1904年頃に刊行された全文英語の「THE CHRISTIAN DAIMYOS」です(写真1、以下「THE~」)。100年以上前の記者と同じ本を手にするなんて、少し不思議な感覚です。著者は「M.Steichen」とありました。Michael Steichen(ミシェル・スタイシェン)でしょう。明治~昭和初期、日本の地で長きにわたってキリシタンを研究したフランスの聖職者です。

 参考資料を手に入れたので、これも見ながら点検を続けます。天正10(1582)年に羽柴(豊臣)秀吉が「大阪在城」とありますが、大坂城の築城は翌1583年から。参照元の「THE~」を見ると、「1583年に大阪に居城を造り始めた」と書いてあるようでした。

 その頃、キリシタン大名の代表格・高山右近の伝道のかいあって、武将の小西行長、蒲生氏郷、黒田孝高らが新たに入信したとしています。「黒田孝高」は、官兵衛のことですね。「THE~」でも「Yoshitaka」としていますし、入信時はまだ「如水」を名乗っていないので、本来の名である孝高と表記したのでしょう。ただこの記事内では既に何度も如水としています。「孝高(如水)」とするなどして補足してもらいましょう。

 ここから急に官兵衛の生い立ちの説明に入ります。官兵衛は「筑前国黒田村」で生まれた、と。筑前は今の福岡県の一部。ドラマをご覧の方は「え?」と思われるでしょう。幼き頃の官兵衛が姫路(現・兵庫県姫路市)の地を駆け回っているのが印象的でしたね。

 続く記述も悩みます。父であるはずの小寺職隆(もとたか、ドラマの配役は柴田恭兵さん)の「養子と成り」、またその職隆は「秀吉の為めに敗亡」するとあります。官兵衛は秀吉に従っていたのに、父が追われるとは??

 「THE~」を見てみましょう。官兵衛は「Born in the village of Kuroda(Omi)」。近江国(現・滋賀県)の黒田村出身となっていました。記者は近江国を筑前国と書き違えたようですが、それにしても姫路は播磨国なので謎が残ります。他の疑問点については「son-in-law the family of Kodera Mototaka」(小寺職隆の養子)、「this Daimyo(=職隆) was defeated by Hideyoshi」(この大名は秀吉に打ち負かされた)とあり、とりあえずは文献の記述どおり記事にしたようです。

 校閲作業の第1段階としては、参考文献どおりならまずはOKとしますが、余裕がある場合は引っかかる点について他の説などを調べてみます。当時は官兵衛に関する文献は少なかったと思いますが、ドラマの影響もあってか、近年は研究が増えてきました。

 まずは出身地とする近江の黒田村について。江戸時代、黒田家が貝原益軒にまとめさせた「黒田家譜」によると黒田氏は、元々近江国の守護で源氏の流れをくむ佐々木氏の一族で、先祖「宗清」が近江の「黒田の里」に住み始めて以降、黒田姓になったとしています。冒頭の記事にも「佐々木氏の裔(すえ)」とありますね。

 官兵衛の祖父・重隆(ドラマでは竜雷太さん)もこの近江の黒田村で生まれたと家譜は記しています。重隆の父の代に、備前国福岡(現・岡山県瀬戸内市)に移り、さらに重隆の代になって姫路に入った、としています。そして官兵衛は姫路生まれとも記されています。「THE~」は、黒田家のルーツとされる地を、官兵衛の出生地と間違ったようです。

黒田家のルーツ拡大黒田家のルーツには主に三つの説がある
 さてその黒田家のルーツ、主に三つの説があるそうです。長浜城歴史博物館の太田浩司副館長の「黒田官兵衛の先祖」(小和田哲男監修『黒田官兵衛』所収、宮帯出版社)によると、
 ①近江国伊香郡黒田村
 ②近江国坂田郡黒田郷
 ③播磨国多可郡黒田庄
です。

「黒田氏旧縁之地」の石碑拡大写真2 「黒田氏旧縁之地」の石碑(左)。1927(昭和2)年に建てられた。碑文は記事にも登場する黒田長成の筆。右には「源宗清」の文字が刻まれた石がまつられている=滋賀県長浜市木之本町黒田
 ①は「黒田家譜」が、宗清が住んでいた地と記しており、現在の滋賀県長浜市木之本町黒田とされています。琵琶湖東岸の北端、秀吉が柴田勝家を破った合戦で有名な賤ケ岳(しずがたけ)の、すぐ近く。現在、黒田家の館があったと伝わる場所に「黒田氏旧縁之地」の石碑が立っています(写真2)。戦後の1973(昭和48)年にはこの場所で、「源宗清」の名が刻まれた石が見つかっています。興味深い発見ですね。

 ②は同県米原市本郷~北方周辺とされています。江戸時代の近江の地誌にも①と②の両方が紹介されているとのこと。黒田家の菩提寺(ぼだいじ)などがあったとする史料があり、途中まで家譜とほぼ同じ系図が伝わっているといいます。

 太田さんによると、鎌倉~室町時代の史料にたびたび登場するので、少なくとも佐々木氏系の黒田氏が実在したということは言えるそうです。中には家譜の系図と同名の人物が見られる史料もあり、①②説ともに、佐々木氏系の黒田氏との関連は十分考えられそうです。

 一方③は、現在の兵庫県西脇市黒田庄町とされます。この地には近江とは違う系図や伝承が残っており、中でも注目されるのが、官兵衛が重隆の子とされていることです。官兵衛は黒田庄で生まれ、そして姫路城主の小寺職隆のもとに養子に入ったとするものです。家譜では、重隆の子が職隆、職隆の子が官兵衛。職隆が主君の小寺氏から重用され姓を賜ったから小寺を名乗るようになった、とあるので、大きく異なっていてこちらも興味をひかれます。

 疑問点として挙げた「官兵衛は職隆の養子」の部分が、この③説を参考にしているとすれば、「THE~」筆者スタイシェンの調査力はかなりのものです。しかし秀吉率いる織田軍に職隆が退けられるというのは明らかな誤りで、これは主君の小寺政職(ドラマでは片岡鶴太郎さん)のことでしょう。似たような名前なので混同したのではないでしょうか。

 姫路か西脇かの違いはあれ、官兵衛が播磨国内で生まれたのは同じようですから、とりあえず「筑前ではなく播磨では?」と指摘しておきましょう。

黒田家廟所(びょうしょ)拡大写真3 黒田家廟所(びょうしょ)。重隆と、官兵衛の母をまつっている。江戸時代後期に福岡藩の調査で墓碑が発見されたという。小寺氏の本拠だった御着城跡(右下は城跡の碑)の近くにある=兵庫県姫路市三国野町御着
 重隆、職隆の存在は、存命時の書状などで確認できるので実在は確かなのですが、重隆の上の代の実在を確認できる史料が発見されておらず、現状では①~③説のどれが正しいとは断言できないようです。最近ではいずれも違うという説、姫路近辺の土豪と推測する説なども議論されているようです。真相に迫る新発見を、今後期待したいところですね。

 キリシタンとしての官兵衛の記事なのに、キリシタンにふれないままここまで長行となってしまいました。この続きは後日改めてご紹介できればと思っています。


【現代風の記事にすると…】

黒田官兵衛没後300年祭開催 キリスト教徒としての足跡をたどる

 来月福岡市で、黒田官兵衛の子孫である黒田長成侯爵が中心となって官兵衛没後300年の記念祭典が催される(実際の300年忌は数年前)。戦国史の中でもひときわ輝く官兵衛の名は、多くの方がご存じだろう。しかし官兵衛がキリスト教の信者で、熱心に啓発活動を行っていたということは、国内ではあまり知られていないかもしれない。

 ミシェル・スタイシェン氏が数年前にまとめた「THE CHRISTIAN DAIMYOS(キリシタン大名)」は、16~17世紀のキリシタン大名について詳述している。この本を元に、官兵衛がキリスト教とどう関わり、保護したかなど、キリシタン大名としての足跡をたどってみたい。

◆キリスト教に入信 

 官兵衛は、播磨国(現・兵庫県)の生まれ。近江国(現・滋賀県)の佐々木氏の末裔(まつえい)との説がある。父の職隆(もとたか)が主君・小寺氏との関係から、小寺姓を用いていたので、官兵衛も当初は小寺を名乗っていたとされる(別の説もある)。宣教師らの手紙などには「小寺」と書かれているものも残っている。主君・小寺政職(まさもと)が羽柴(豊臣)秀吉率いる織田軍に追われた後は、黒田姓に戻したようだ。

 秀吉が大坂城を築いていた頃、大名をはじめ多くの人がキリスト教に入信した。当時は、宣教師が各地をまわって伝道するよりも各信者が教義を説くことによって広まっていったという。摂津国高槻(現・大阪府高槻市)の大名、高山右近は特に熱心な信者で、右近の布教によって何人もの信者が誕生した。武将の小西行長、蒲生氏郷、秀吉の侍医だった曲直瀬(今大路)道三。そして官兵衛も、その一人だ。

 (後略)

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください