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昔の新聞点検隊

1899〈明治32〉年2月1日付東京朝日朝刊7面拡大1899〈明治32〉年2月1日付東京朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

●豊公祭と福引 赤阪福吉町黒田侯の邸裏なる金山貴族院書記官の庭園に昨年の冬一つの豊国神社を建設し豊公の遺物を蔵し社の表面には黒田侯揮毫の「豊国大明神」の額を掛け社前には旧臘京都阿弥陀ケ峰より寄附ありし榊を植ゑ余程美事に出来上りしを以て過般祭典を行ひ尚余興として豊公に因ある福引を為したるが其中の二三を聞くに丈の高き松の枝に水引を添へたるは豊公の毛利攻なり 即ち高松水引にて竹の皮の中にははんぺんを包しは豊公の軍士竹中半兵衛なり 其粗末なる帽子の籤に当りしは豊公に於ける黒田如水軒にて帽子即ち謀士の類にてありしと

(1899〈明治32〉年2月1日付東京朝日朝刊7面)

 
【解説】

 前々回(3月4日更新)に続いて、大河ドラマの主人公、黒田官兵衛について取り上げます。今回はがらっと変わって、かつての名軍師をだじゃれの福引にしてしまった、という珍妙な記事です。

 では順々に校閲していきましょう。

 まず「福吉町」は、現在の東京都港区赤坂2丁目のあたりを指します。福岡藩(黒田氏)と人吉藩(熊本県、相良氏)の藩邸があったことからついた地名と言われています。現在の記事では、全国的に有名な地名であれば区名を省略することにしています。たとえば「東京・銀座」や「大阪・中之島」といった形です。福吉町は全国区とは言えませんので、「東京都赤坂区福吉町」とするか、「東京・赤坂」と略すのがよいでしょう。

 「黒田侯」はこの時の黒田家当主、黒田長成(ながしげ)を指します。前々回も登場していますね。今回の記事は前々回より10年前で、父の長知(ながとも)も存命ですが、すでに家督を譲られており、1884(明治17)年に侯爵となっています。当時は黒田侯と言えば誰もが知っていたのかもしれませんが、現在では記事で初めて登場する時にはフルネームにしています。

 同様に、「金山貴族院書記官」もフルネームにしてもらいます。名は「尚志」といいますが、そのまま挿入すると漢字が10文字もつながってやや見にくくなりますので、「金山尚志・貴族院書記官」と区切って読みやすくした方がよいでしょう。

 「豊公」は豊臣秀吉のことですが、特別に敬った呼び方です。この記事が書かれたのは明治時代。豊臣を徳川が滅ぼし、徳川のたてた幕府を倒して明治になっています。だから「敵の敵は味方」とばかりに敬意を込めて呼んだのかもしれません。現在では、歴史的人物については平等に呼び捨てにするようにしています。

1898年4月22日付東京朝日朝刊3面拡大豊公300年祭が開かれたことを伝える記事=1898年4月22日付東京朝日朝刊3面
 社前に植えた榊は京都の阿弥陀ケ峰からの寄付だったとありますが、阿弥陀ケ峰がどのような場所なのかが分からないと、なぜ寄付してもらえたのかも分かりません。

 阿弥陀ケ峰は現在の京都市東山区にある標高196メートルの山で、山腹に秀吉の墓である「豊国廟(ほうこくびょう)」があります。江戸時代にかなり荒廃してしまいましたが、明治に入って再興の機運が高まり、秀吉の没後300年を前にした1897(明治30)年、廟や五輪塔が建てられました。この再建を主導したのが黒田家で、翌年の「豊公300年祭」を主催した豊国会の会長がまさに黒田長成侯爵でした。

 このころ、大阪でも豊公祭が行われたり、名古屋にある豊国神社のまわりを公園として整備しようという動きがあったりしました。今回の赤坂の豊国神社の建設はそんな流れの中で行われたものでした。

 記事の「阿弥陀ケ峰」は山そのものというよりも、豊国廟のことを暗に指していますので、「豊国廟から寄付された」とすればはっきりします。

 この後にだじゃれの福引がいくつか紹介されていますが、どれも秀吉や福岡藩藩祖である黒田官兵衛に関わりがあるものです。それぞれどのような関係にあるのか、簡単な説明があった方が分かりやすいでしょう。(「現代風の記事にすると…」ご参照)

 最後に見出しです。「豊公祭」とありますが、この言葉は本文に登場しません。6行目にある「祭典」の正式名称が豊公祭なら、ここに入れるのがよいでしょう。もし違う名前なら、本文に入れた上で見出しの言葉も変える必要があります。

 校閲としての指摘はここまでですが、せっかくなので、今回は二つ目のだじゃれ「竹の皮につめたはんぺん」に登場した竹中半兵衛と官兵衛の関係について、少し見ていきましょう。

有岡城跡拡大有岡城跡。奥に見えるのは本丸の礎石建物跡=広瀬集撮影
 竹中半兵衛重治(1544~1579)は現在大河ドラマでも活躍中の通り、秀吉の名軍師と言われた人物です。実際には軍師という正式なポストがあったわけではなく、織田信長の配下にあって秀吉に貸し出されていたような形だったと言われています。秀吉の軍師的存在として官兵衛の先輩にあたるというだけではなく、半兵衛は黒田家にとって大変重要な行動を起こしたとされています。

 ※以下、ドラマのネタバレになるかもしれませんので、ご注意下さい。

 1578年、播磨国(兵庫県)の毛利方攻略に取りかかっていたところに突如、信長から摂津国(大阪府)を任されていた荒木村重が反乱を起こして有岡城(兵庫県伊丹市=写真)にたてこもります。村重と旧知の仲だった官兵衛は反乱をやめるよう説得に向かいますが、村重に捕らえられ牢に入れられてしまいます。

 帰ってこない官兵衛のことを裏切ったのだと思った信長は、官兵衛の嫡男(ちゃくなん)・松寿丸の処刑を秀吉に命じます。これに対して半兵衛は官兵衛の裏切りを信じることなく、松寿丸を自分の居城にかくまい、信長にうその報告をすることで命を助けました。

中央の白壁で囲まれた所が竹中半兵衛の墓拡大中央の白壁で囲まれた所が墓。官兵衛と関連づけたのぼりが数本たっていた。後方の山の奥数百メートルのところに秀吉の本陣跡がある=兵庫県三木市
 翌年、有岡城から官兵衛が助け出されたとき、すでに半兵衛は病没していました。松寿丸はのちに福岡藩初代藩主になる長政ですから、この半兵衛の行動がなかったら、黒田家はまったく違うかたちで江戸時代を迎えていたかもしれません。その後長政は竹中家への感謝のしるしとして、半兵衛の孫の一人を養育し家臣として厚遇したといいます。

竹中半兵衛の墓=兵庫県三木市拡大竹中半兵衛の墓
 肺の病気を患っていた半兵衛は秀吉に療養を命じられていましたが、戦場での死を望み、播磨・三木城(兵庫県三木市)を包囲する陣で死去したと言われています。半兵衛の墓は三木市内や居城のあった岐阜県内などいくつか伝わっていますが、そのうちの一つ、三木市平井にある墓は田んぼやブドウ畑に囲まれてひっそりとたっています=写真。華やかな表舞台にはほとんど立たなかった半兵衛らしい雰囲気です。竹につめたはんぺんという福引の素朴さも、また半兵衛らしいと言えるでしょう。


【現代風の記事にすると…】

豊公祭のだじゃれ福引

 東京・赤坂の黒田長成侯爵の屋敷裏にある金山尚志・貴族院書記官宅の庭に、昨年冬豊国神社が建設された。豊臣秀吉の遺物が納められており、社の正面に掛けられた「豊国大明神」の額は黒田氏の筆によるものだ。社前には、昨年12月に京都・阿弥陀ケ峰の豊国廟(ほうこくびょう)から寄付された榊を植えた。完成を祝って先頃「豊公祭」が行われたが、余興として秀吉にちなんだ、だじゃれの福引が登場した。

 たとえば「背の高い松の枝に水引を結んだもの」。これは、秀吉による「高松水引」、つまり中国地方の毛利氏を攻めた際の備中高松城(岡山市)の水攻めを表している。この水攻めは、黒田氏の先祖である黒田官兵衛の進言によるものと言われている。

 次に「竹の皮の中にはんぺんをつめたもの」は、官兵衛と同様秀吉の軍師と言われる竹中半兵衛にちなんでいる。官兵衛とあわせて、後世「両兵衛」とたたえられた人物だ。

 では「粗末な帽子」は? 官兵衛は質素倹約を奨励したと言われている。質素な「謀士」だから、とのこと。

(森ちさと)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください