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昔の新聞点検隊

「カチューシャの唄」100年

板垣 茂

1914(大正3)年7月20日付東京朝日朝刊5面拡大1914(大正3)年7月20日付東京朝日朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

●下らない問題
 ▽カチューシャの唄と
 ▽教育者の驚愕

「カチューシャ可愛や別れの辛さ」 街を歩いて居ると何処からともなくよく此唄が耳に響く 以前喇叭節や、奈良丸崩しが流行ったと同じ様な凄じい流行である、本年三月芸術座が帝劇に「復活」を演じた時、劇中松井須磨子の扮したカチューシャが唄った小唄、夫れが此流行の種子を蒔いて以来、学生や、女学生の間、昨今は新橋の芸者にも恐ろしい勢ひを以て流行して居る程であるのに、今度又

▲大博の演芸館 で再び此劇が演ぜられ、又しても此唄が須磨子の唇から漏れる様になって流行は殆ど其頂点に達した感がある、今では小学校へ行っても、校庭に戯れる児童の口から此唄を聞く様になった、すると又何事にも心配性の教育者が之を以て風教上頗る有害なものとして此唄を歌ふことを厳禁するに至った、併し「カチューシャの唄」として出版した山本が既に十二版を重ね約三万部を売尽したと云へば流行の大勢は容易に防ぎ止めることが出来さうにも見えぬ 教育者間にては目下戦々兢々之が

▲流行の撲滅策 に就て腐心中である、カチューシャの唄は五つあるが島村抱月氏が先づ原作の意釈を試みて、第一の唄を作り第二から第五迄は相馬御風氏が替歌を作ったもの 作曲は音楽学校卒業生中山晋平氏で「西洋楽と日本の小唄の間を狙って欲しい」と云ふ島村氏の注文に応じて作ったものである、島村氏曰く「帝劇の興行後此復活を持って大阪から岐阜信州、北越地方等を巡業して来たが、何処へ行っても行く前にカチューシャの唄が流行って居て、社会の有ゆる階級に歌はれて居るのに驚いた、此唄の作曲が六ケ敷くなくてスラスラと誰の唇にも上り易い為めであらう、此唄を教育者が厳禁すると云ふのは甚だ謂れのないことである、自分は此唄が別に卑猥なものとは考へない、此唄以上に卑猥な唄が幾らも世間に歌はれて居るではないか、我国では恋愛教育と云ふものを全く閑却して居るが此唄の流行を憂ふる教育家諸君の狭量を寧ろ憐むものである」

(1914〈大正3〉年7月20日付東京朝日朝刊5面)

 
【解説】

 カチューシャかわいや 別れのつらさ
 せめて淡雪 とけぬ間と
 神にねがいを ララかけましょか

「復活」初演当日の紙面。前日の舞台稽古を報じている拡大「復活」初演当日の紙面。前日の舞台稽古を報じている。「子フリユドフ」「子フルドフ」はカチューシャの相手役「ネフリュードフ」のこと=1914年3月26日付東京朝日朝刊5面
 ちょうど100年前の今ごろ、東京・丸の内の帝国劇場で演じられた劇から生まれたこんな歌が、空前の大ヒットになりました。しかし当時はテレビはもちろんラジオ放送もなく、レコードも高価で、主に口伝えで人々の間に広がっていったのでした。今回はそんな時代の流行歌を巡る騒動をご紹介します。

 まずは当時の記事を読んでみましょう。「喇叭(ラッパ)節」は日露戦争終戦の1905年からはやり出した歌で、最後に「トコトットット」とはやしことばが付けばいいので、いろんな替え歌がありました。「奈良丸崩し」は浪曲師の吉田奈良丸が歌い、「これを知らない芸者はお座敷が務まらない」と言われたほどの人気だったといいます。

 「復活」はロシアの文豪トルストイが1899年に発表した小説。これを原作に芸術座の主宰者・島村抱月が作った劇の中で、主人公カチューシャ役の女優・松井須磨子が歌うのが「カチューシャの唄」です。当時の帝劇は3年前に日本初の本格的な洋式劇場として開場したばかりで、ルネサンス様式の白亜の殿堂でした。「カチューシャが唄った小唄」とありますが、この記事の他の箇所では「歌ふ」「歌はれて」なので、今だったらそろえたいところです。

1914年7月18日東京朝日朝刊5面拡大大正博覧会の様子。芸術座の上演日程の「三十日迄」は、「三日間」とあることからも「二十日迄」の間違い。あまりの人気に、更に数日間増やされた=1914年7月18日東京朝日朝刊5面
 「大博」とは、1914年3月から7月まで上野公園を会場に東京府主催で開かれた「東京大正博覧会」のこと。今で言うパビリオンが色々あり、その中の「演芸館」で安い料金で「復活」を上演したため、観客が殺到して上演日数を増やす騒ぎになったそうです。

 あまりの流行に教育者が歌を厳禁するくだりの直後に「出版した山本が」とあります。この前にも後にも山本氏は出て来ず、誰なのか謎です。「出版した」のが何なのかも書かれていません。記事を紙面に組み付ける過程で、なくても全体に影響しない文を字数の節約のために省くのはよくあることですが、その中に大事な部分が含まれていたのかもしれません。

 「流行歌の誕生」(永嶺重敏著、吉川弘文館)によると、「レコードの普及以前においては、新しい歌の発表はまず楽譜や歌本の出版という形を取るのが常」だったので、出版して「三万部を売尽した」のはそのどちらかだと思われます。

 相馬御風は「春よ来い」や早稲田大学校歌「都の西北」の作詞者、中山晋平は「シャボン玉」「証誠寺の狸囃子」「アメフリ」「てるてる坊主」「東京音頭」などの作曲者として有名です。ここで、彼らには「氏」が付き、松井須磨子には敬称がないのにお気付きですか? 現在では芸能人、スポーツ選手の本業の活動を記事にする場合、敬称を付けずに書く慣例が定着しています。この記事も偶然かどうかはともかく同様の書き方になっているので、現代風の記事ではそのまま引用することにします。ちなみに亡くなって久しい歴史上の人物の場合も敬称を付けていません。

須磨子死去翌日の紙面。7段を使って報じており、衝撃の大きさがうかがえる拡大須磨子死去翌日の紙面。7段を使って報じており、衝撃の大きさがうかがえる=1919年1月6日付東京朝日朝刊3面
 「カチューシャの唄」には5番まで聴いても抱月の言うとおり「卑猥(ひわい)な」歌詞はなく、この歌が教育上好ましくないとされたのは男女の愛情を歌っているからだと思われます。「大正デモクラシー」で自由な風潮が想像される時代ですが、現代の流行歌のほとんどを占めるラブソングは、まだまだけしからぬ存在だったようです。

 翌年には「いのち短し 恋せよ少女(おとめ)」の歌詞で有名な「ゴンドラの唄」を歌うなど、人気女優の名をほしいままにした須磨子でしたが、1918年11月、そのころ世界中で大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)で愛する抱月を失います。翌年正月、「カルメン」を演じていた須磨子は後を追いました。32歳(数えで34歳)。あの帝劇の歌声からまだ5年も経っていませんでした。

 須磨子の当たり役はいま、「カチューシャ」と呼ばれるヘアバンドにその名をとどめています。


【現代風の記事にすると…】

「カチューシャの唄」大流行 学校では禁止令も

 今年3月、東京・帝国劇場で芸術座がトルストイ原作の「復活」を上演した。松井須磨子扮する主人公カチューシャが歌った劇中歌がそれ以来、大流行している。今月には上野の大正博覧会で上演が始まって、また松井の歌声が聞けるようになり、今では小学校の校庭で遊ぶ子どもたちの口からも漏れるほどになった。

 教育関係者の中にはこれを風紀上有害だと考える人が多く、各学校で「カチューシャの唄」禁止令が出されている。しかし、この歌の楽譜や歌本が版を重ねて何万部も売れるほどの人気であり、子どもや若者の間にはやるのを防ぐのは難しそうだ。

 「カチューシャの唄」は5番まであるが、1番は芸術座を主宰する島村抱月氏、2番以降は詩人の相馬御風氏が1番を参考に作詞した。作曲者は東京音楽学校卒業生の中山晋平氏。「西洋音楽と日本の小唄の間を狙って欲しい」との島村氏の注文に応じて作った。

 島村氏は帝劇での興行後、「復活」を大阪から岐阜、長野、北越地方などを回って上演してきたが、「どこでも行く前に『カチューシャの唄』がはやっていて、あらゆる階層の人々に歌われているのに驚いた。メロディーが難しくなく、誰でも歌いやすいからだろう」と話す。

 一方で教育者がこの歌を禁止する動きについては、「全くいわれのないことで、私はひわいな歌だとは思わない。日本では恋愛教育が無視されているが、この歌の流行を憂える教育者たちの心の狭さをむしろ哀れむ」と語った。

(板垣茂)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください