メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

昔の新聞点検隊

勝った? 負けた? サッカー代表初のAマッチ

広瀬 集

1923〈大正12〉年5月24日付 東京朝日 夕刊2面拡大1923〈大正12〉年5月24日付 東京朝日 夕刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています。画像は一部加工しています

【当時の記事】

蹴球 =二対一=
日軍惜敗す

日本対比律賓の蹴球は廿三日午前九時四十分開始、球審竹内線審松田露木両氏、比軍先蹴

前半戦 比軍のキックオフの球をハーフで喰止めた日軍は其儘ゴールに攻め立て開戦後五分にしてゴール前の揉合から出た球を清水(隆)軽く一蹴 見事にゴールインして日軍の勢大に揚る 比軍奮起して猛烈なゴール前のシュートを屡繰返したが遂に得点するに至らずして前半戦を終る

後半戦 日軍に漸く疲労の色が見えて来たのに乗じて比軍巧妙なパスを利用して盛んに攻め立てフォワード、レフトインナーのエスタバ中央線よりのドリブルに先づ一点、閉戦前十五分更に左翼よりのパスを受けたヴイラレアルのシュート見事に極って遂に一点を勝越し 日軍は大に蹶起したが及ばず二対一惜くも敗れた

――――
15 FK 2
14 GK 14
6 CK 9
0 PK 0
2 OS 12
 
(日)  (比)
原田 チンタノ
深山LF バイロン
日高RF ヘエンテス
沢潟LH ヴイラレアル(A)
神田CH ヘネイズ
平林RH ヴイラレアル(F)
藤原LW バチエコ
安積LF エスタバ
清水CF ロペツ
木坂RF ウイレフ
清水(直)RW シツソン

(1923〈大正12〉年5月24日付 東京朝日 夕刊2面)

【解説】

 ブラジルで開催されるサッカー・ワールドカップ(W杯)の開幕が迫ってきました。12日には、日本代表のメンバーが発表される予定です。昨年12月に対戦国(コートジボワール、ギリシャ、コロンビア)が決まってしばらく間がありましたが、ここからぐっと盛り上がってくることでしょう。

第6回極東大会4日目の様子を伝える紙面拡大別記事1 第6回極東大会4日目の様子を伝える紙面。左下には結果・記録も載っていて、現在の五輪紙面も顔負け=1923年5月25日付 大阪朝日夕刊1面
 さて今回取り上げたのは、その日本代表に関する記事。記念すべき国際Aマッチ1試合目を報じたものです。1923(大正12)年、第6回極東選手権競技大会での、フィリピンとの試合です。

 極東大会は、今でいえばアジア大会のような総合スポーツ大会。とはいっても参加国はほぼ日本、中国、フィリピンのみです。1913(大正2)年から34(昭和9)年まで10回行われ、陸上、水泳に加えて野球やサッカー、テニスなどの球技も競われました。会場は3カ国の回り持ち。この第6回は大阪で開催され、紙面でも大きく扱われました(別記事1)。

 では記事を見てみましょう。まず見出しが気になりました。「日軍惜敗す」としながら、「二対一」と書いていますね。見出しを見ただけだと、勝敗が分かりづらいです。現在の紙面では、主語である日本が敗れたことを分かりやすくするために「1対2」とします。

 次に本文。午前9時40分のキックオフ。審判名もあって、今となっては貴重な情報です。ただ「球審」だと野球みたいですね。今なら「主審」です。

 序盤は日本が押していたようで、前半5分、ゴール前の混戦から「清水(隆)」選手が流し込んで先取点を奪います。しかし記事の後ろにつくメンバー表、「清水(直)」選手は見あたれども「(隆)」選手が見あたら……あ、下から3番目に「清水」選手がいました。これが「清水(隆)」選手なのでしょう。表記をそろえなくてはいけませんね。

 前半は日本リードで折り返しますが、日本に疲れが出始めた後半、フィリピンが反撃します。同点に追いつかれると、終了15分前には「ヴイラレアル」選手に勝ち越しゴールを決められた、とあります。ここでまたメンバー表を見ると、「ヴイラレアル」の名が2人……。「(A)」と「(F)」で書き分けているので、どちらなのか本文にも明記してほしいですね。

 このように、記事と付属の表や写真説明に食い違いがないか、という点も校閲の重要な点検ポイントです。

同日の大阪の紙面。「ヴイレホ」選手が2点目を決めたとある拡大別記事2 同日の大阪の紙面。「ヴイレホ」選手が2点目を決めたとある(赤傍線部)=1923年5月24日付 大阪朝日夕刊1面

「蹴球を見る人の為に」と題し、サッカーのルールを識者に聞いた記事拡大「蹴球を見る人の為に」と題し、サッカーのルールを識者に聞いた記事。2段目にフォーメーションの略図=1919年2月5日付 東京朝日朝刊6面
 しかしこのフィリピンの2点目ですが、大阪朝日の紙面では「ヴイレホ」選手が決めた、と報じていました(別記事2)。東京紙面のメンバー表では「ウイレフ」となっています(下から2人目)。大阪の原稿を電話で東京に伝える際に、伝達ミスがあったのかもしれません。なお、日本サッカー協会発行の「日本代表公式記録集」でも、2点目の得点者名は空白にしています。今となっては真相は闇の中です。

 ところでこのメンバー表のポジション名、見慣れない表記ですよね。当時のフォーメーションは、現在とはだいぶ違ったようです。この4年前の記事にフォーメーションを図示したものがありました(別記事3)。ゴールキーパー以外のディフェンスが2人、中盤3人、前線が5人の「2-3-5」ですね。現代のサッカーは少なくともディフェンスを3人は配置し、日本代表は「4-5-1」で戦うことが多いです(図参照)。

サッカーのフォーメーションの比較拡大サッカーのフォーメーションの比較

 今回の記事の大阪朝日の本記(別記事2の上部)によると、この日は秩父宮・大会総裁も観戦に訪れ、「北風に煽(あお)られて横なぐりに降(ふ)きつける豪雨」の中で行われたようです。競り合いで相手選手が転ぶと、起こして泥を払い握手をする「スポーツマンスピリット」あふれる試合だったとありました。フェアプレーはこの頃からの日本代表の伝統でしょうか。「球が周囲の囲ひを越え民家の大屋根に大バウンドして泥濘(ぬかるみ)の道路に落ちる」と、通行人などが雨傘を放り出して「拾ひとり競技場に投げ込」んでいたそうで、当時のおおらかな雰囲気もうかがえます。

 実は1917年第3回、21年第5回の極東選手権にも日本は参加しているのですが(計4試合、全敗)、日本サッカー協会によると、協会設立前なので公式の代表戦とは数えないそうです。23年のこの試合に惜敗した日本代表は、翌日の中国との試合にも1対5で敗れ、最下位(別記事1はこの試合を報じた紙面です)。代表初勝利は27年の第8回大会まで待つことになります(対フィリピン2対1、別記事4)。

第8回極東大会、サッカーで日本が初勝利を挙げたことを報じる記事拡大別記事4 第8回極東大会、サッカーで日本が初勝利を挙げたことを報じる記事。「蹴球史を飾る勝利」=1927年8月30日付東京朝日朝刊3面

 6月14日(日本時間15日)、W杯初戦のコートジボワール戦は、今回紹介したフィリピンとの試合から数えて632試合目の国際Aマッチになる予定です。90年の積み重ねを、サッカー王国ブラジルの地でいかんなく発揮してもらいたいですね。


【現代風の記事にすると…】

極東選手権 サッカー フィリピンに惜敗 1―2

日本1-2フィリピン
(日)   (フ)
原田 GK チンタノ
深山 DF バイロン
日高 ヘエンテス
沢潟 MF A・ビラレアル
神田   ヘネイズ
平林   F・ビラレアル
藤原 FW バチエコ
安積   エスタバ
清水隆    ロペツ
木阪   ウイレフ
清水直   シツソン
   
15 FK  2  
14 GK 14  
6 CK 9  
0 PK 0  
2 OS 12  
※OS=オフサイド
キックオフ午前9時40分
主審・竹内 線審・松田、露木

 23日、第8回極東選手権大会のサッカー競技が行われ、日本代表はフィリピンに1-2で惜敗した。前半、フィリピンの攻撃を中盤で食い止めた日本は5分、ゴール前の混戦からFW清水隆が流し込んで先取点を奪い、勢いに乗った。フィリピンも強烈なシュートで日本のゴールに迫ったが決めきれなかった。

 しかし後半、日本は疲れの色が出始めるとフィリピンにパスをつながれ、FWエスタバに中央からドリブルで切り込まれて同点に追いつかれる。さらに終了15分前には左サイドからパスを通されて勝ち越し弾を許した。その後は懸命に攻めたが、あと一歩及ばなかった。


 (注)本来は得点者名は必須情報ですが、今回は不明のため、省略しました

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください