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昔の新聞点検隊

漱石七回忌 没後さらに高まる文豪の存在感

田島 恵介

1922(大正11)年12月9日付東京朝日朝刊5面拡大1922(大正11)年12月9日付東京朝日朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

漱石七周忌のお逮夜 昨夜末よしの集まり
元気のよい鏡子未亡人

文豪夏目漱石が逝いてもう七年になる、八日が恰度その七回忌だ、夏目家では此日神楽坂の料亭末よしに故人門下及び極く近親の人々四十人ばかり招待し、大広間の祭壇へ飾った故人の写真や死仮面の前で蕭やかな追懐談に夜を更した、遺族としては

未亡人鏡子さん、それからお嬢さんの筆子(二四)恒子(二二)栄子(二〇)愛子(一八)二男の伸六君(一五)等が見えたが

長男純一君(一六)は身体の具合が悪いとかで姿を見せない、筆子さんの聟君松岡文学士の忠実々々しい斡旋振りが先づ眼につく

寺田寅彦博士、真鍋嘉一郎博士や門下の森田草平、野上臼川、鈴木三重吉、阿倍能成、松根東洋城氏等悉く揃ったが久米正雄氏や小宮豊隆、芥川龍之助氏は顔を出さない

菩提寺小石川清水谷の至道院から和尚さんが来て読経を済ますと一同焼香して直ぐお膳に就いた 『漱石の後に漱石なしか』と何処やらで詠嘆的に云ふと『併し先生の生きて居られた時分と今とは文壇の傾向がすっかり変ってゐるからね』と草平氏が囁く

「第一に多勢の作家の上に立つ者が存在し得なくなった 個性が発達したとでも云ふか殆ど団栗の背競べといふ状態ではね、漱石は先づ二度と生れて来ないだらうよ」

と云ふものもある、恰幅の好い未亡人は殊の外元気に見えた

写真は右から未亡人、松岡文学士、伸六君、筆子、栄子

(1922〈大正11〉年12月9日付東京朝日朝刊5面)


【解説】

 夏目漱石(1867~1916)の代表作のひとつ「こころ」が、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」(当時)に連載されて、今年でちょうど100年を迎えました(本の刊行も1914年のことでした)。

 それを受けて朝日新聞では、4月下旬から「こころ」を再び紙面で連載しています。

 「こころ」は小説家・漱石の円熟期に発表され、その文学の到達点を示すものとされます。明治元年の100年後にあたる1968年に、作品で描かれた「明治の精神」を見直す機運が生じた結果、評価がいっそう高まった作品です。

 文部省の派遣でロンドンに留学して英文学を学んだ漱石は、帰国後、英語の教師をしながら書いた「吾輩は猫である」(1905~06)で鮮烈な小説家デビューを果たしました。その後、朝日新聞の主筆だった池辺三山(1864~1912)に誘われ、朝日新聞社に入社しました。そして、「虞美人草」をはじめとして「三四郎」「それから」「門」を経て、未完に終わった「明暗」に至るまで、数々の名作を東京・大阪朝日の紙面で次々と発表しました。漱石が胃潰瘍(かいよう)のため49歳で亡くなったのは、「明暗」連載中のことでした。

1916年12月10日付東京朝日朝刊5面拡大漱石死去を報じる紙面。ページの3分の2を使って業績や追悼の談話を紹介している=1916年12月10日付東京朝日朝刊5面
 漱石の小説家としての活動は約12年間に過ぎませんでしたが、没後97年をへた今なお、その作品群は読みつがれています。

 今回は、日本の近代文学史上に偉大な足跡を残した漱石に関連して、漱石の七回忌(没後6年)の記事を見てみます。漱石に師事した弟子たちの肉声が記されており、当時の評価を知る上でも興味深い内容になっていると思います。

 まずは点検からです。

 見出しの「お逮夜(たいや)」は、現在では聞き慣れない表現かもしれません。「火葬または、葬儀の前夜」をさす場合もありますが、ここでは「忌日の前夜」(以上、「日本国語大辞典 第二版」)をさします。

 同じく見出しに「漱石七周忌」とありますが、本文では「七回忌」となっています。ここは一般的な「七回忌」にそろえてもらいましょう。

 さらに、本文の最初に「もう七年になる」とありますが、「もう六年になる」ないしは「七年目を迎えた」としたほうが正確です。「七回忌」の場合は、亡くなった年も含めて「7」と数えます。漱石が亡くなった1916年から数えて22年は満6年です。

 また、見出しや本文に出てくる「未亡人」(いまだ亡びざる人)ですが、これは元来、夫を亡くした妻が自分のことを謙遜していう語。今の新聞なら「鏡子さん」「漱石の妻」などとするでしょう。なお本文の最後のほうでは、これに「びばうじん」(びぼうじん)とルビが振ってありますが、現在では「みぼうじん」と読むのが一般的です。

1917年12月9日付東京朝日朝刊5面拡大漱石一周忌の法要の記事。この時から会場は神楽坂の「末よし」だった=1917年12月9日付東京朝日朝刊5面
 明治から大正にかけて、それまで複数あった漢語の読みかたが一本化された例は珍しくありません。たとえば文中の「和尚(わしやう)」も宗派によって読み分けることもありますが、こちらも「おしょう」と読むのがふつうですね。

 それから、本文で遺族の名前が挙げてあるところ、次男の名前に「君」がついているのに、娘たちの名前は呼び捨てという不統一は気になります。逐一「さん」を入れるのがよいでしょう。写真の説明も同様です。

 そのほか、人名の誤記が2カ所あります。門下生として登場する「倍能成」は「倍能成」、「芥川龍之」も「芥川龍之」の誤りです。芥川は、自分の名が「龍之助」と書かれるのをひどく嫌ったそうですが、彼自身の著書で「龍之助」と誤植されたことも何度かあったようです。

 では、記事の内容に移りましょう。まず文中に、「筆子さんの聟君(むこぎみ)松岡文学士」とあるのは、小説家・松岡譲(ゆずる)(1891~1969)のことです。「法城を護(まも)る人々」などの著書があります。実はその松岡と、このとき「顔を出さな」かった小説家の久米正雄(1891~1952)とは、漱石の長女・筆子を取り合って険悪な仲になっていました。

 芥川龍之介は、1923年に発表した随筆で次のように書いています。

 「Kは或事件の為に、先生(夏目漱石のこと―引用者)の歿後(漱石宅に―引用者)来ないようになった。同時に又旧友のMとも絶交の形になってしまった。これは世間も周知のことであろう」(「漱石山房の冬」)

 引用文中のKは久米正雄、Mは松岡譲です。「或(ある)事件」とは上記の三角関係のことで、筆子が松岡を結婚相手に選んだために、久米は塞ぎ込んでしまいます。そして久米が、失恋の顛末(てんまつ)を小説「破船(はせん)」などで世間に発表した結果、松岡と「絶交の形になってしまった」というわけです(のちに和解したようです)。ですから、このときも久米は用事で欠席というわけではなかったのかもしれません。

1918年12月10日付東京朝日朝刊7面拡大三回忌では門下生が追悼の句を霊前に手向けた=1918年12月10日付東京朝日朝刊7面
 その他の門下生についても触れておきます。寺田寅彦(1878~1935)は、物理学者にして随筆家。俳人としての顔も持っていました。鈴木三重吉(1882~1936)は雑誌「赤い鳥」を創刊した人物で、児童文学運動で広く知られています。小宮豊隆(1884~1966)は演劇評論家として知られ、漱石の小説「三四郎」の主人公のモデルといわれるドイツ文学者です。野上臼川は号で、野上豊一郎(1883~1950)といったほうが通りがよいでしょう。能楽研究者としても著名な英文学者で、法政大学総長も務めました。妻はプロレタリア文学作家の野上弥生子です。

 松根東洋城(1878~1964)は、寺田寅彦と並ぶ最古参の弟子で、主に俳句の面で漱石に師事しました。東京朝日の俳壇の選者を務めていたこともあります。ちなみに、鏡子の証言を松岡譲が書きとどめた「漱石の思い出」には、「それから」の連載を心待ちにする松根の姿が描かれています。

 七回忌では、そうそうたる面々から、「漱石の後に漱石なし」「漱石はまず二度と生まれて来ないだろう」などという声があがっています。漱石の存在感が没後ますます高まっていたことがわかります。また、こうして法要に漱石を慕う多くの人々が集まっていたという事実からも、漱石の遺徳をうかがい知ることができますね。

 漱石が亡くなった12月9日は、「漱石忌」として俳句の季語にもなっています。この日には、今も多くの人たちが漱石をしのんで俳句を詠むなどしています。


【現代風の記事にすると…】

夏目漱石7回忌 門下生ら40人、文豪をしのぶ

 文豪夏目漱石が亡くなってはや6年。8日には七回忌法要が営まれ、夏目家は東京・神楽坂の料亭「末よし」に、門下生や近親者の計約40人を招待し、思い出話などで故人をしのんだ。

 漱石の妻・鏡子さん、娘の筆子さん(24)、恒子さん(22)、栄子さん(20)、愛子さん(18)、次男の伸六君(15)らの遺族が出席したが、長男の純一君(16)は体調不良のため姿を見せなかった。筆子さんの夫・松岡譲氏が世話係を務めた。

 門下生の寺田寅彦さん、真鍋嘉一郎さん、森田草平さん、野上臼川さん、鈴木三重吉さん、安倍能成さん、松根東洋城さんらが顔をそろえたが、久米正雄さんや小宮豊隆さん、芥川龍之介さんは出席しなかった。

 菩提(ぼだい)寺である至道院(東京市小石川区)の和尚の読経や焼香の後、会食になった。

 会食では「漱石の後に漱石なし、なのか」「しかし、先生の生きておられた時分と今とでは文壇の傾向も全く違う」「そもそも、大勢の上に立つ作家が存在しなくなった。個性が発達したというか、ドングリの背比べという状況だ。漱石のような人は二度と生まれてこないだろう」などと故人をしのびつつ、文学談議となった。

 鏡子さんは、終始元気そうな姿を見せていた。

 【写真説明】右から漱石の妻・鏡子さん、娘婿の松岡さん、次男伸六君、娘の筆子さん、栄子さん

(田島恵介)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください