昔の新聞点検隊
(2014/06/10)
(略)「……昨年の十一月、上野公園で見合を致しましたが、この縁談成立までには得能、高田両氏の外、宮内省の方々にも大分御厄介になりました、宗秩寮の小原鈴吉君ですか、能く知って居りますよ、然し二万円を柳原家に贈り、一万円を媒介者に何したとは無根です、柳原さんに気の毒ですよ、伊藤伝右衛門は九州の炭掘でも、無教育の男でも、炭掘には炭掘だけの人格がある積です、金で買った結婚などと云はれては、柳原家に対する大侮辱は勿論、この伝ねむの男が廃ります」と伝ねむさん金の煙管を弄ぶ、五十二歳と廿七歳、素性賤しい炭掘と名門柳原家の姫君と、斯う並べ立ては事珍らしく噂に上るものの、前代議士たる富豪と華族の出戻り娘との婚姻と言ひ直せば、何の奇もなき配遇なるべく、此の赤縄結んで緊かれ幸多かれ、明治四十四年二月二十二日、翌の吉日を生日の足日と祝き申す
(1911〈明治44〉年2月22日付東京朝日朝刊5面)
【解説】
前回(5月27日更新)に続いて、柳原燁子(白蓮)さんの再婚の記事をご紹介します。放送中のNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」の「蓮(れん)さま」こと葉山蓮子のモデルとなっている実在の女性、伯爵家の柳原燁子さんが、25歳年上の九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚するというお話でした。
「成り上がり」富豪の伝右衛門氏が華族の「燁子姫」と結婚するにあたり、うわさを含めていろいろと書き立てて……いえ、読者の興味関心に応えてきた連載です。結婚式を目前に始まった連載記事の最終3回目は、挙式当日付の紙面に載ったものです。世間にうわさが広まった「結納金2万円」(現在の2億円相当)について、伝右衛門氏本人が語った真相とは?
それを読む前に、「当時の記事」では略しましたが、この日の記事の前半部では花嫁・燁子さんの半生を振り返っていますので、読んでみましょう。
伯爵家の中でも、「才貌双美(才色兼備と同義と思われます)の聞こえ同族間に高」い燁子さんは、幼い頃から養父母の子爵の家で育ち、華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)を卒業する前に15歳で婚約者と結婚します。男の子が生まれて京都で暮らした時期もありましたが、20歳で離婚、東京の柳原家に戻っていました。そして23歳で麻布の東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)に編入、そこでドラマのとおり8歳年下の級友、のちの村岡花子さんと出会います。また、和歌を佐佐木信綱氏に学んでいました。そんなころ、今回の結婚話が浮上したのです。
ここでご注意。このころの年齢表記は数え年でしたので、今の満年齢に直すには1~2歳分、差し引かなければなりません。燁子さんは15歳で1度目の結婚、20歳で離婚し、このとき25歳でした。伝右衛門氏も、前回の記事に52歳で「老紳士」と書かれていましたが、今でいうところの50歳でした。
さて、記者はまず燁子さんの兄・柳原義光伯爵のところへ突撃取材しています。燁子さんの1回目の結婚について、伯爵は「各自(おのおの)の趣味が合はぬとか何とかの事情があって、遂(つい)に子供あるに離別せねばならぬ事になりました」と語っています。それを聞いて、「(先夫と)趣味合はずして離別しながら、更に驚くべく境遇と趣味の相反せる伝ねむさんと結婚するとは、ちと辻褄(つじつま)の合はぬ話なれども」と違和感を抱く記者。伯爵の答えは「出戻りですからなァ、先(ま)づ伊藤伝右衛門氏を信じて、遣(や)ることに致しました」。
離婚歴があり「出戻り」と呼ばれることが、現代の「バツイチ」に比べてずっと厳しい目で見られていたことが分かります。記事にも「良人(おっと)を捨て、最愛の一子を捨てて、生きては還るまじと誓ひたる柳原家に帰りたる」とまで書かれ、女性にあるまじきことをしたとされた燁子にとって、実家とはいうものの居心地の悪さは相当だったでしょうね。
続いて記者は伝右衛門氏本人にも直撃。「翁は」とすっかり老人扱いしていますが、再婚を控えた伝右衛門氏は「極めて平気の風を粧(よそお)へど、心中の嬉(うれ)しさは隠し了(おお)せぬ」様子で話し始めます。「花聟(はなむこ)と云(い)はれる程の齢(とし)でもありません、昨年妻が病死しまして以来、縁談は都合十二人の申込がありました」。すごいですね。
そして、「当時の記事」にあるとおり、燁子さんとは、前年の11月に東京の上野公園で見合いをしたとのこと。華族である燁子さんとの縁談には、宮内省や、その中で皇族や華族に関する事務を担った部局「宗秩寮」の人々も関わったようです。
そして伝右衛門氏はここで柳原家に2万円、仲人に1万円を贈ったことを完全否定。「金で買った結婚などと云われては、柳原家に対する大侮辱はもちろん、この伝ねむの男が廃ります」と宣言し、記者もそれを聞いて納得したようです。
伝右衛門氏に対して「素性賤(いや)しい炭掘(すみほり)」とあからさまな表現は相変わらずですが、ここは「一介の炭鉱労働者」などに改めてもらうとして、ともかく、年齢も境遇もかけ離れた2人にいろいろうわさはあるけれど、「前代議士たる富豪と華族の出戻り娘との婚姻と言い直せば、何の奇もなき配偶(つれあい)なるべく、此の赤縄(えにし)結んで緊(かた)かれ幸多かれ」と、2人の末長い幸せを願う言葉で結んでいます。
花嫁・燁子さん本人への直接取材は残念ながら実現しなかったようです。ドラマで描かれたように、燁子さんは家に閉じこもり、押しかけた報道陣に応じなかったのでしょうか。それとも女性が本音を語るなんてもってのほか、兄である伯爵の話がすべて、ということだったんでしょうか。
こうして「結納金2万円」については伝右衛門氏が明確に否定したものの、この後すっかり定説に。10年後に燁子さんの身に起きる大事件の時もそうでしたが、現在に至るまで、当時どんなに賛否を呼んだ結婚だったかという話題のたびに引き合いに出されます。10年後の朝日新聞も、「山と積まれた千両箱の富の力に伯爵家の心も動かされたと云はれる、結納金二万円也、さういつた噂(うわさ)が燕の飛ぶにも似て南から北へ、北から南へ伝はった」とこのときの再婚を振り返ることになるのです。その記事はまた後日、ドラマの進行に合わせてご紹介しましょう。
そして22日の結婚式を報じる24日の紙面です。
22日の午後1時、「日比谷大神宮にて、伯爵樺山海軍大将の媒酌で」結婚式を挙げました。伝右衛門氏の装いは「五ツ紋に仙台平の袴(はかま)、山高帽にインバ子ス」。「インバ子ス(インバネス)」はコートのこと。一方の「燁子姫」は「下げ髪に花の字散らしの元禄模様」の着物。30分ほどで式は終わり、夜には改めて帝国ホテルで披露会が開かれたようだ、とあります。
ちなみに2人が式を挙げた日比谷大神宮は、その名のとおり、当時は東京・日比谷にあったのですが、現在は残っていません。関東大震災後の1928(昭和3)年、千代田区富士見に移転して「飯田橋大神宮」と呼ばれるようになり、さらに戦後は「東京大神宮」と名前を変えて、現在は女性に人気の縁結びスポットとなっています。
こうして燁子さんは、これから先10年間を福岡・飯塚の幸袋(こうぶくろ)にある伝右衛門氏の邸宅で暮らすことになります。
伝右衛門氏は燁子さんを迎えるにあたって、大豪邸を増改築。広大な日本庭園を一望できる2階部分が燁子さんの部屋となりました。この邸宅は飯塚市が買い取り、現在は旧伊藤伝右衛門邸として一般に公開されています。
さらに伝右衛門氏は、燁子さんの求めに応じて九州で初めての水洗トイレをつくったほか、朝食のためにパンを取り寄せたといわれ、年の離れた妻への心遣いも感じられます。ただ、「子供はいない」と聞かされていた伊藤家には2人の養子と1人の実子がおり、燁子さんは複雑な家族構成に悩まされることになるのです。
【現代風の記事にすると…】
●燁子さんと「伝ねむ」さん(続)
伊藤伝右衛門さんは記者の取材に対し、こう話した。
「昨年の11月、上野公園で見合いをしましたが、この縁談がまとまるまでには得能、高田両氏のほか、宮内省の方々にもずいぶんお世話になりました。宗秩寮の小原鈴吉くんも、よく知っています。しかし、2万円を柳原家に贈り、1万円を仲人に……というのは事実無根です。そんなことを言ったら、柳原さんが気の毒ですよ。伊藤伝右衛門は九州の炭掘り、教養のない男と言われても、炭掘りには炭掘りなりの誇りがあります。金で買った結婚などと言われては柳原家に対する侮辱になりますし、この『伝ねむ』の男が廃ります」
50歳と25歳という年の差、一介の炭鉱労働者と名門柳原家の姫君と人々は並べ立てて面白がっているが、前代議士である富豪と、華族の一女性の再婚と言い直せば、何もおかしいところのない結婚といえる。
この2人の縁がしっかりと結ばれ、幸多きことを祈り、明治44年2月22日、佳き日をお祝い申し上げる。
(薬師知美)
原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から
等の手を加えています。ご了承ください