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昔の新聞点検隊

1924(大正13)年6月19日付東京朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1924(大正13)年6月19日付東京朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

旅行季節に 有卦に入る列車ボーイ連
東京鉄道局八十三名の実入り話

旅行シーズンに入って有卦に入るものは先づ列車ボーイを以て筆頭とする、東京から下関間の列車に乗務してゐるボーイの数はいま東京鉄道局だけに八十三名ゐる、若いのは十六歳の少年で最年長者は三十一歳だが平均年齢は二十一歳になってゐる、急速度で運転する列車内に乗込んで寝台の世話から身の廻りの手伝ひなど

忠実に働くこのボーイのためには一時十円、五円と惜気もなくチップを出してゐたものもあったのだがこの頃は稀れに五円を奮発するものがある位で一円から五十銭がチップの標準相場になったやうだ、それでもこのチップはボーイが列車から降ると直ぐ車掌監督が調査して強制的に全額を貯金させることにしてゐる、誘惑され易い青年を救ふためでもあるがまた前途に道を拓く

資金を作るために当局で計画したのである、現にその貯金総額は八万六千円余になってゐるがそれは全部八十三名のボーイが貰ひ溜めたチップである(中略)これ等のチップは主として寝台車のある東京駅発の下関行及神戸、明石行特急の乗客から得るのが多いのであって下関行には八人神戸明石行には五人のボーイが乗ってゐる、しかし距離は短くてもボーイの数が少い神戸や明石行の列車に乗るボーイは一往復によって一人

廿円 下関行列車のボーイは一往復に十五六円ある(中略)このチップの

貰ひ溜めをもっていま立派に独立してゐるものもあればそれを学資として専門学校へ入学したものもある、元ボーイの関野寛君などやめると同時に代々木新町に自動車店を開いたといふからその収入も想像される、山下岩吉君は六年間のボーイ生活によってパラマウント映画会社の重役になった(以下略)この節ではボーイ連も鉄道の強制的な貯金に慣れ中には一部を銀行へ預けてゐるものもある、自動車店を開いてゐる関君などはその一人であって鉄道局を辞した時にはそこの貯金と同額のものが安田銀行に貯蓄してあったといふことである

(1924〈大正13〉年6月19日付東京朝日朝刊7面)


【解説】

寝台特急「トワイライトエクスプレス」=2008年2月18日午後0時8分、JR新大阪駅、平井一生撮影拡大寝台特急「トワイライトエクスプレス」=2008年2月18日午後0時8分、JR新大阪駅、平井一生撮影
 寝台特急「トワイライトエクスプレス」(大阪-札幌)の来春限りでの引退が発表されました。他にも北海道新幹線の開業のため、同じ寝台特急「北斗星」「カシオペア」(東京・上野-札幌)も廃止が検討されています。鉄道の高速化や飛行機の発達などもあり、旅情豊かな寝台列車が消えていこうとしているのは残念なことです。今回は、その寝台列車にまつわる記事を取り上げます。

 まずは点検。

寝台特急「北斗星」=2013年1月30日午前6時44分、JR函館駅、平井一生撮影拡大寝台特急「北斗星」=2013年1月30日午前6時44分、JR函館駅、平井一生撮影
 記事の見出しに「有卦(うけ)に入る」とあります。「有卦」は干支(えと)に割り当てた幸運の年回りで、吉事が7年続き、無卦になると凶事が5年続くといわれます。良いことが続くという意味ですが、最近の紙面ではほとんどみかけません。今なら「かき入れ時の列車ボーイたち」といったところでしょうか。人数の数え方が「名」と「人」が入り乱れているのも今なら「人」にそろえます。

 また後ろの方に自動車店を開いている元列車ボーイの「関野寛君」「関君」が出てきますが、同一人物ではないのでしょうか(「現代風にすると…」では同一人物と仮定して直しています)。もし別人なら、「関君」はここで初めて登場する人物なのでフルネームにしてもらいます。

寝台特急「カシオペア」の車内=2014年1月14日、上田孝嗣撮影拡大寝台特急「カシオペア」の車内=2014年1月14日、上田孝嗣撮影
 「列車ボーイ」という言葉を初めて聞かれた方もいると思います。1・2等車の乗客の身の回りの世話や食堂車での給仕などを仕事とした青少年です。1898(明治31)年、山陽鉄道の急行列車に初めて登場しました。同鉄道は、瀬戸内海の汽船との顧客競争もあり、乗客へのサービス向上のため、1900年には日本で初の寝台車を導入しています。

 1889(明治22)年に東海道線(新橋―神戸)が開通、1901(明治34)年には山陽線(神戸―下関)も全線開通します。鉄道国有法の制定(1906年)で国有鉄道となり、特急・寝台列車の増加に伴って列車ボーイも増えていきます。東京―下関間は約20時間。新橋-大阪間の鉄道旅客運賃は6円4銭、新橋―神戸間の寝台車料金は下段7円、上段5円(1920〈大正9〉年)でした。

 24(大正13)年6月の記事は、旅行シーズンに入って収入増が見込まれる少年たちの実入りのよさを伝えています。

 東京鉄道管理局に所属する83人は16~31歳。1・2等車の乗客は、華族や官僚など富裕層が多く、まめに働く若者らに心付けをはずんだようです。日給や乗務手当とは別にボーイたちが得た心付けは、東京から神戸や下関への1往復で1人につき15~20円。月に8~10往復勤務したそうです。高等文官試験に合格した高等官(国家公務員の上級甲種またはⅠ種)の初任給が70円(1918年)でしたから月収としては破格といえます。

表彰されることが報道されると求婚が相次いだという列車ボーイの記事(画像は一部加工しています)=1925年11月11日付東京朝日朝刊10面拡大表彰されることが報道されると求婚が相次いだという列車ボーイの記事(画像は一部加工しています)=1925年11月11日付東京朝日朝刊10面
 この心付けは乗車勤務が終わるごとに車掌が調べ、鉄道管理局で強制的に貯金させていました。その総額8万6千円。1人で5500円ためた人もいました。ちなみに1920年当時で、内閣総理大臣の1カ月の給料が1千円、東京府知事(都知事)の年俸は6千円でした。

 ボーイ勤めを終えて、貯金をもとに事業を起こす者や大学に進学する者もいたようです。ある27歳のボーイは勤続14年6カ月で8千円の貯金と貸し家2軒を建てました。「酒も道楽もせず真面目一方で働いて」列車ボーイの模範となり1925年に表彰されましたが、表彰の記事が出ると多数の女性から結婚申し込みの手紙が来て困ったという話もあります。

 列車ボーイを主人公にした映画「大いなる驀進(ばくしん)」(東映、1960年制作)で当時を知ることができます。脚本は新藤兼人さん。列車ボーイ(車掌補)役の中村嘉葎雄さん、車掌役の三国連太郎さんら乗務員を中心に暴風雨のなかを長崎へ向かう寝台特急「さくら」での人間もようが描かれています。

列車ボーイ4人の募集に応募者が殺到した=1928年3月18日付東京朝日夕刊2面拡大列車ボーイ3人の募集に応募者が殺到した=1928年3月18日付東京朝日夕刊2面
 列車ボーイの受験資格は身体が丈夫で眉目秀麗(びもくしゅうれい)、高等小学校卒業で鉄道院関係者の紹介が必要などと厳しかったにもかかわらず、1928年の採用試験では、4人の募集に山形、福島、新潟、愛知など各地から68人の応募がありました。今なら容姿を条件にした受験条件は考えられないですね。

 若者に人気もあった仕事ですが、少年が高額の収入を得ることによる弊害もありました。その対策に各地の鉄道管理局も苦慮していたようです。

 そのあたりの話は7月1日更新の記事で紹介します。


【現代風の記事にすると…】

旅行季節に かき入れ時の列車ボーイ 東京鉄道局83人の実入り話

 旅行シーズンに入って、列車ボーイたちはかき入れ時だ。東京―下関間の列車に乗務しているボーイは東京鉄道管理局だけで83人。最年少は16歳、最年長は31歳で、平均年齢は21歳だ。

 猛スピードで運転する列車に乗り込んで寝台や身の回りの世話をするボーイに、乗客が一時は10円、5円と惜しげもなくチップを出していた。しかし、この頃の乗客はまれに5円を奮発する人がいるぐらいで1円~50銭がチップの相場になっている。

 このチップはボーイが列車から降りると、すぐ車掌が調査して強制的に全額を貯金させている。誘惑されやすい青年を救い、また前途に道を開く資金を作るために鉄道局が決めた。83人のボーイがためた貯金は総額8万6千円余になっている。(中略)

 これらのチップは寝台車のある東京駅発の下関・神戸・明石行きの特急の乗客からもらうものが多い。下関行き列車には8人、神戸や明石行きには5人のボーイが乗っている。しかし距離は短くてもボーイの数が少ない神戸や明石行きに乗るボーイは1往復で1人20円、下関行き列車のボーイは1往復に15~16円の実入りがある。(中略)

 このチップをためて、いま立派に独立している人もいれば、それを学資として専門学校へ進学した人もいる。元ボーイの関野寛さんは辞めると同時に東京・代々木に自動車店を開いた。山下岩吉さんは6年間のボーイ生活を経て、後にパラマウント映画会社の重役になった。(中略)

 最近では列車ボーイたちも強制的に貯金されることに慣れ、一部を銀行に預金している人もいる。自動車店を開いた関野さんもその一人で、鉄道局を退職した時には、強制的に貯金させられたのと同額の預金が安田銀行にあったそうだ。

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください