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昔の新聞点検隊

1917(大正6)年9月30日付東京本社朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1917(大正6)年9月30日付東京朝日朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています

【当時の記事】

列車ボーイの心附は十月一日から廃止
=心附から来る色々の弊害
◇長尾中管局長年来の主張を断行 ◇中管局と西管局とは意見が違ふ

中部鉄道管理局でも愈局長長尾半平氏の斧を振るって十月一日から断然列車給仕の心附を廃止する事に決まり同局管下の列車ボーイ君六十六名は数日前車掌監督に招かれて堅く申聞かされたさうだ従って

◇長尾局長は乗客に対して「かへって給仕の迷惑になるのだから心附は以後やって下さるな」と希望してゐる 従来此の列車ボーイには何の位の収入があったのかと云へば鉄道院から支給するのは何も彼も一切で平均一月分十九円余りに過ぎないけれども心附は一人平均一月に三十八円はあった、殊に三、四両列車の二等車に乗込む給仕の如きは一月最高

◇百五十円も貰ふのがあり従って種々の弊害が伴って行った 長尾局長が「大学卒業生以上の収入を此の少年等に与へるのは彼等を堕落に導くものだ」と予々云ったのが此処の事であるらしい そして乗客側にも非常識な者や給仕を玩具にしやうといふのさへあって遂に列車ボーイで堕落のドン底に陥ったのが幾人あるか知れないといふ

◇或る馬鹿な若夫人は列車給仕に心付と共に自分の宿所を書いて渡したという実例もあった、成金らしいのが手の切れさうな十円紙幣を投げて呉れたのさへ中管局には沢山の例がある、併し心付を廃止しだけでは相当身装を要する給仕は困る事になるので平均約三十円位に給金値上をしてやるさうだ それでも車掌監督が心付

◇廃止を宣告して「止めたい者はおやめ 決して何とも云はないから」と云った時に六十六人中二十三人は辞職を申出たさうだ(中略)併し此の中管局の心付廃止に依って大打撃を蒙るのは西管局のボーイ連である中管と同じ東京下関間を走るのだから別段西管のボーイですから心付を頂戴しますと云ふ訳にも行くまいし、だからと云って西管局で給金を上げて呉れる訳もなし甚だ

◇割の悪るい役回りと云はねばならぬ(以下略)

(1917〈大正6〉年9月30日付東京朝日朝刊5面)


【解説】

 明治の中頃から鉄道の発達、延伸とともに特急や寝台列車で接客などを受け持った通称「列車ボーイ」。その高収入ぶりを6月17日公開の「列車ボーイは高給取り」で紹介しました。

 列車ボーイがあまりに高収入であることには、早くからその弊害が指摘されていました。1917(大正6)年には中部鉄道管理局(中管)の長尾半平局長(1865~1936)が、「列車ボーイへの心付けの廃止することを決めた」と発表したことが報じられています。今回紹介するのはこの記事です。

 まずは現代の校閲記者の視点で点検してみましょう。

 記事の本文と見出しに「心附」と「心付」が混在しています。どちらかにそろえてもらいましょう。本文の「馬鹿な若夫人」も「馬鹿な」と罵倒するのは新聞の表現としては不適切ですので抜くか、「非常識な」などとしてもらいましょう。その後ろの「心付を廃止しだけでは」とあるのは、今なら「廃止しただけでは」と「た」を入れる方が自然ですね。

 長尾半平氏は土木・鉄道技術者、教育者、後に衆議院議員にもなり、俳人でもありました。ロンドン滞在時代には夏目漱石と同じ下宿でした。漱石の短編「過去の匂い」に出てくる「K氏」だと言われています。クリスチャンで禁酒主義者、社会活動に尽力した人でもありました。その長尾氏が列車ボーイの誘惑の多い生活を放置するはずもなく、少年らの将来を憂えて改革しようとしたのです。

夏目漱石が朝日新聞に発表した「過去の匂い」(当時のタイトルは「過去の臭ひ」)=1909年1月24日付東京朝日朝刊6面拡大夏目漱石が朝日新聞に発表した「過去の匂い」(当時のタイトルは「過去の臭ひ」)=1909年1月24日付東京朝日朝刊6面

 列車ボーイの多くは高等小学校を卒業した15、16歳でこの仕事に就きます。東京-下関間往復なら1カ月8回、東京-神戸間なら10回の乗務で平均日給の総額が8円くらい。一往復2~3日の乗務を終えて午前8時に東京駅に戻ると、翌日午後7時の出発まで公休、といった生活でした。皆勤すると月給と手当で月に20円前後になりました。

列車ボーイ生活を報じた記事=1921年12月30日付東京朝日夕刊2面拡大列車ボーイ生活を報じた記事=1921年12月30日付東京朝日夕刊2面
 問題の心付けは東海道、山陽など路線によって差があったようですが、1等寝台列車では心付けを置かない乗客はなく、毎月平均40円くらいの収入があったといいます。中には月に150円も稼ぐ、すご腕もいたようです。

 合計すると収入は平均で月60円ほど。当時の新聞を見ると大卒の月給が35円前後でしたから、かなりの高収入です。

 当時の列車ボーイはその後、鉄道局の車掌・助役になる者、進学したり起業したりする者、家賃収入や利殖で気楽に暮らす者など、成功した人もいましたが、株に投資したが株の暴落でまたボーイ勤めとなる者や、芸者らとの交際で身を持ち崩す者もいました。

 放蕩(ほうとう)のあげくに解雇された元列車ボーイが、乗客の物に手をつける事件も相次ぎました。例えば乗客の上着から財布を盗む(1925年)、1等と2等寝台列車の乗客7人から現金・貴金属合わせて4千円を盗む(29年)など。現職の列車ボーイが、集金した現金2千円を見せびらかした乗客から抜き取った事件もありました(33年)。

 また、長尾氏は「(心付けを)もらうことが当たり前なら、受け取る金額の多寡によって客に対する態度を変えるということがありうる」と、以前からその弊害を説いていました。

 肝心の中管の廃止宣言ですが、ボーイ66人中23人が辞めるという結果になっています。さらに6月17日に紹介した「列車ボーイは高給取り」が今回の記事の7年後、1924年の記事であることからも分かるように、「宣言で心付けが廃止された」とは言えないようです。

列車ボーイが「姿を消す」と報じた記事(一部加工しています)=1976年10月13日付東京本社版夕刊8面拡大列車ボーイが「姿を消す」と報じた記事(一部加工しています)=1976年10月13日付東京本社版夕刊8面
 当時は北海道、東北などそれぞれの地方の鉄道管理局が各地の鉄道事業を管轄し、西部鉄道管理局(西管)など中管以外の鉄道管理局はそのままだったことで徹底しにくかったのでしょうか。

 実際にノーチップ制が断行されたのは、1962(昭和37)年。その後76年に1300人いた列車ボーイ(当時の職名は「車掌補」)は、赤字国鉄の合理化の一環で廃止されてしまいました。


【現代風の記事にすると…】

列車ボーイの心付け 10月1日から廃止へ
中管局長、長年の主張を断行 西管局は同調せず

 中部鉄道管理局でもいよいよ10月1日から列車給仕(ボーイ)の心付けを廃止することに決まった。同局の列車ボーイ66人には数日前、車掌監督から申し渡されたという。長尾半平局長は、乗客に対しても「かえって給仕の迷惑になるのだから、心付けは以後渡さないようにお願いしたい」と話している。

 これまで列車ボーイの鉄道院からの月給は平均で19円余り。しかし心付けは1人平均1カ月38円。特に3、4両列車の2等車に乗り込むボーイは1カ月で最高150円もらう者もいた。長尾局長はかねて「大卒の給料以上の収入を少年(列車ボーイ)に与えるのは多すぎだ。彼らを堕落させかねない」と主張していた。

 乗客にも非常識な者やボーイを誘惑しようとする者もいて、身を持ち崩した列車ボーイが何人もいるという。中管局の例では、お金持ちの若い女性が列車ボーイに心付けとともに自分の宿泊先を書いたメモを渡したり、羽振りの良い乗客が手の切れそうな10円紙幣を投げ渡したりしたケースがあったという。

 心付けを廃止しただけでは列車ボーイが生活に困りかねないので、月給を平均約30円に引き上げるそうだ。それでも、車掌監督が心付け廃止を宣告して「辞めたい者は辞めても構わない」と話すと、66人中23人が辞職を申し出たという。(中略)

 しかし、この中管局の心付け廃止によって大打撃を被るのは西部鉄道管理局の列車ボーイたちだ。中管と同じ東京-下関間を乗務するが、「私は西管のボーイですから心付けをちょうだいします」と言うわけにもいかない。(以下略)

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください