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昔の新聞点検隊

三浦按針と「カテキさま」の意外な関係

板垣 茂

1927(昭和2)年4月27日付東京朝日夕刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1927(昭和2)年4月27日付東京朝日夕刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

三浦按針の乗った船
更に国宝価直を深めた
カテキ尊像の正体

【長崎特電】昨年夏足利吾妻村の龍江園から帝室博物館に移されたカテキ尊像事エラスチスの木像は村上博士の研究で蘭船エラスムス号の船首装飾像だと鑑定されたが

長崎高等商業学校教授武藤長蔵氏は

この像が船尾装飾像であることと、蘭船エラスムスは日本へ最初に渡来した英人三浦按針の乗って居た蘭船ソーフデ号であることを発見した

(中略)

エラスムス号とソーフデ号の関係については既にファレンタインやパジェスの書で同船異名だと断定されてあるが村上、新村両博士は以上の本が後世の著なるが故に疑ひをさしはさまれてゐた

しかし武藤教授は最近オランダ公使館通訳スネレン氏から贈られた

ヘーグ市ナイホーフ書院発行のリンスホーテン叢書第二十一巻ウィーダー博士編「マゼラン海峡経由南米および日本へ」のマフ並にル・コルレツの千五百九十八年千六百年間航海記中に「ソーフデ号は元エラスムスと呼ばれてゐたのが名前を更へたのだ、名前を更へた後も尚しばしばエラスムスと呼ばれた、エラスムスの像は船尾にあった」と明記あるのを発見して事実を断定するに至ったのである

(後略)

(1927〈昭和2〉年4月27日付東京朝日夕刊2面)


カテキさまの写真が初めて紹介されたのはアサヒグラフだった=1925年7月8日付アサヒグラフ14ページ拡大カテキさまの写真が初めて紹介されたのはアサヒグラフだった=1925年7月8日付アサヒグラフ14ページ
【解説】

 1925(大正14)年の夏、アサヒグラフに奇妙な木像の写真が載りました。栃木県のお寺に「カテキさま」と呼ばれて伝わったものです。

 掲載をきっかけに、この像が昔のオランダから来たものと分かり、当時の東京帝室博物館に寄託されて国宝指定も検討される一方、オランダ公使からは同国へ譲るよう頼まれる騒ぎとなります。

 それから2年後の今回の記事は、この像が三浦按針(あんじん)ことウィリアム・アダムズと関係があるらしいと報じたものです。

 英国人の按針はオランダ船リーフデ号で関ケ原の戦いの年に今の大分県に漂着。徳川家康から現在の横須賀市に領地を与えられ、外交顧問として重用されました。やはり家康に仕え、東京・八重洲の地名の元になったオランダ人ヤン・ヨーステンも同じ船に乗っていました。「按針」とは水先案内人のことで、リーフデ号の航海士だった経歴を指します。「三浦」も領地のあった三浦半島から来ています。

朝日新聞紙上で初めてカテキ像が紹介された時の紙面=1926年7月10日付東京朝日夕刊2面拡大朝日新聞紙上で初めてカテキ像が紹介された時の紙面=1926年7月10日付東京朝日夕刊2面

 それでは記事を点検してみましょう。見出しは一見「国宝価値」と読めますが、よく見るとにんべんのない「直」になっています。誤植と思ってしまいそうですが、辞書には「価直」も同じ意味で、昔は「かちょく」と読んだとしているものがあります。今の記事なら、より一般的な「価値」を使うところです。

 本文に移ります。「足利吾妻村の龍江園」ってどこでしょう? 現在も東京国立博物館にある像の由来を調べてみると、栃木県佐野市の龍江院にあったものと分かります。現在の佐野市がどうやって出来たかをたどっていくと、当時は足利郡吾妻村です。「栃木県」を入れてもらい、龍江「園」ではなく「院」では?と聞いてみましょう。「帝室博物館」は京都や奈良にもあったので「東京」を付けてもらいます。

 過去の記事によると、博物館から像の調査を依頼された東京音楽学校(現東京芸術大学)の村上直次郎校長(文学博士、日欧通交史)が、16世紀に活躍したオランダ出身の学者エラスムスの像だと判断しています。だから今回の記事に1カ所だけ「エラスチス」とあるのは誤植。「村上博士」はフルネームにしてもらいましょう。少し後にも「村上、新村両博士」と出てきますが、「新村」は「広辞苑」の編者として有名な新村出・文学博士のこと。キリシタン文献や南蛮文化の研究者でもあります。当時の文学博士は、史学や哲学などの分野も含む学位でした。

カテキ像が付いていたのはリーフデ号かもしれないとする新村博士の話。半信半疑だが、村上博士と「確証をつかみたい」と語り合ったという=1926年11月17日付東京朝日朝刊5面拡大カテキ像が付いていたのはリーフデ号かもしれないとする新村博士の話。半信半疑だが、村上博士と「確証をつかみたい」と語り合ったという=1926年11月17日付東京朝日朝刊5面

 「ソーフデ号」と何度も出てくるのは、按針が来日した時に乗っていた船のことですから「リーフデ号」の間違い。「愛」という意味のオランダ語(liefde)です。按針の航海ではリーフデ号を含む5隻の船団が組まれ、他の4隻もキリスト教で重視される概念が名前になっていました。しかし、1年9カ月にわたる過酷な航海の末に日本に到達したのは、リーフデ号ただ1隻でした。

 武藤教授がオランダ公使館の通訳からもらった本に「ヘーグ市ナイホーフ書院発行の……」で始まる長い説明が付いていますが、研究者にはともかく、一般の読者には何のことやら分かりません。「千五百九十八年千六百年間」を西暦「1598~1600年」と読むと、按針がオランダを出航した年、日本に到着した年と一致します。

読者投稿欄ではカテキ像をオランダに譲るべきかどうかが議論された=1928年5月12日付東京朝日朝刊3面拡大読者投稿欄ではカテキ像をオランダに譲るべきかどうかが議論された=1928年5月12日付東京朝日朝刊3面
 また、英国の作家が書いた「さむらいウィリアム」(ジャイルズ・ミルトン著、築地誠子訳)によれば、按針のいた船団のマフという司令官は航海中に死亡し、デ・コルデスが新司令官に就任しています。だから「マフ並にル・コルレツ」は司令官の名前のようです。後者の表記が違うのは「de Cordes」の「d」を「l」と読み違えたのではないでしょうか。

 以上のことから、武藤教授がもらった本は按針のいた船団の航海記であると思われます。専門家でなくても分かる説明に直してもらいましょう。

 村上博士は「カテキ」を、中国の伝説で最初に舟をつくったとされる「貨狄(化狄)」のことだと推定しています。もしそうなら、エラスムス像は数百年の間、船の一部だった由来を示すキーワードで呼ばれていたことになります。しかし寺の地元に伝わる別名は「小豆とぎばばあ」。小豆を洗うような音をたてたからだとか。夜になるとムジナに化けるとまで言われたそうですから、やっぱり像の用途の記憶は完全に失われていたようです。

 なぜエラスムス像が栃木県のお寺にあったのか。旗本の牧野氏が菩提(ぼだい)寺の龍江院に納めたと言われますが、入手方法は、按針から直接もらった、島原の乱の時に大分から持ち帰った、朝鮮から持ち帰ったと諸説あり、よく分かりません。

 今回の記事は研究者向け論文のような文章である上に、読者が過去の記事を熟読していることを前提にした不親切な書き方です。現代風の記事では、説明が足りない部分を過去の記事から補ってみました。

 
【現代風の記事にすると…】

「カテキさま」の正体判明
三浦按針の船の一部だった

 昨年夏、栃木県吾妻村の龍江院から東京帝室博物館に移された「カテキ尊像」ことエラスムスの木像は、村上直次郎・文学博士の研究により、大航海時代のオランダ船エラスムス号の船首装飾像と鑑定されていた。

 しかし長崎高等商業学校の武藤長蔵教授はこのほど、像が船首ではなく船尾にあったこと、また、エラスムス号は日本へ最初に来た英国人と言われる三浦按針(ウィリアム・アダムズ)が乗っていたリーフデ号であることを発見した。

 エラスムス号とリーフデ号が同じ船であるとする歴史書は既に確認されている。しかし按針の時代から百数十年以上も後に書かれたもので、出典も示されていないので、村上博士と新村出・文学博士は、内容が事実か疑っていた。

 ところが最近、武藤教授がオランダ公使館の通訳から贈られた本には、リーフデ号を含む5隻の船団の司令官が書いた航海記が載っていた。そこには、リーフデ号はエラスムス号から名前を変更したことと、エラスムス像が船尾にあったことが明記されていた。直接関わった人物が書いた一次資料が見つかったわけで、教授は事実だと断定した。

(板垣茂)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください