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昔の新聞点検隊

全米テニスで熊谷4強進出

上田 孝嗣

1918(大正7)年9月4日付東京朝日朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1918(大正7)年9月4日付東京朝日朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

熊谷氏優勢 =国際通信社一日発

熊谷一也氏は国際テニス選手競技会に於てテイル・イ・マハム氏と対抗し四対六、六対三、六対零、六対一のスコーアを以て勝利を博したり、氏は二日米国フィラデルフィヤ人ダブリュー・エス、チルデンと試合すべし 而して其勝者は最後の優勝戦としてカリフォルニアのアー・リンドレーマーレー氏と対抗すべし

(1918〈大正7〉年9月4日付東京朝日朝刊5面)


【解説】

 今年の全米オープンテニスは、錦織(にしこり)圭選手(24)が、準決勝で第1シードのノバク・ジョコビッチ選手(セルビア)を下し、男女を通じて日本選手で初めて4大大会のシングルス決勝に進みました。決勝は、マリン・チリッチ選手(クロアチア)に敗れ、初優勝はなりませんでしたが、その活躍に日本中が沸き上がりました。錦織選手の活躍で96年前、全米選手権で4強入りした日本人の名がたびたび紙面に登場しました。

 今回はその熊谷一弥(いちや)選手(1890~1968)の活躍した当時の記事を取り上げます。冒頭の記事は1918(大正7)年、熊谷選手が全米選手権で4強入りしたことを伝えています。記事を今の校閲記者の視点から点検してみましょう。

 まず見出しですが、「全米4強」などと入れて、どんな大会のどこまで勝ち進んだのか、分かるようにしたいところです。また、「優勢」とありますが、これだと「まだ決着はついていないが、優位に試合を進めている」とも読めてしまいそうです。記事には「勝利を博した」とあるので「勝つ」としましょう。

 また、記事中の熊谷選手の名前が「一」となっており、「かずや」とルビが振ってありますが、「一(いちや)」が正しいようです。その後に出て来る「フィラデルフィヤ人」はリンドレイ・マレー選手が「カリフォルニアの」としているので、体裁をそろえると「フィラデルフィアの」となるところでしょうか。いまの全米オープンは世界各国から選手が集まるので、「ビル・チルデン(米)」などと国の紹介だけにしています。

 記事に戻りましょう。

 熊谷選手はこの試合に勝ってベスト4に入りましたが、なぜか続報がありません。熊谷選手が次に対戦した相手はビル・チルデン選手(1893~1953)ということはわかります。チルデン選手は4大大会の優勝が、シングルス10回(全米7、全英3)、ダブルス6回(全米5、全英1)、混合ダブルス5回(全米4、全仏1)という強豪。身長が188センチと大きく、「ビッグ・ビル」の愛称で呼ばれました。一方で「リトル・ビル」と呼ばれたのは身長175センチ前後のジョンストン選手。熊谷選手も影響を受けた名選手で、全米、全英で優勝したことがあります。2人は全米の決勝対決6度のライバルでした。

 全米選手権は1881年に始まり、1968年にプロ選手への開放によって全米オープンとなります。オープン化以前の大会は男女のシングルス・ダブルス各部門がそれぞれ別の会場で開催され、優勝決定の方式も「チャレンジラウンド」(前年優勝者への挑戦権決定戦)方式がとられていました。

第7回アントワープ五輪で熊谷氏が日本人初のメダル獲得を報じた記事=1920〈大正9〉年8月26日付東京朝日朝刊5面拡大第7回アントワープ五輪で熊谷氏が日本人初のメダル獲得を報じた記事=1920〈大正9〉年8月26日付東京朝日朝刊5面
 166センチの熊谷選手は準決勝でチルデン選手と対戦し、2―6、2―6、0―6のストレート負けを喫しました。決勝は前年優勝のリンドレイ・マレー選手がチルデン選手を6―3、6―1、7―5で下し2連覇を達成しました。

 熊谷選手は、福岡県大牟田市生まれ。慶応義塾大学でテニス部に所属し、1913(大正2)年に同大テニス部が軟式から硬式に移行。左利きで、高い打点からスピンのかかった強烈なドライブを放つのが持ち味で、フィリピンや中国など海外の大会にも派遣され活躍、16年の全米選手権にも出場しています。大学卒業後は銀行の米国駐在員として勤務、1919年には全米ランク3位(1位ジョンストン選手、2位チルデン選手)になりました。

日本選手の活躍を報じたデビスカップ観戦記。下の写真は熊谷氏=1921〈大正10〉年10月7日付東京朝日朝刊6面拡大日本選手の活躍を報じたデビスカップ観戦記。下の写真は熊谷氏=1921〈大正10〉年10月7日付東京朝日朝刊6面
 1920(大正9)年のアントワープ五輪(ベルギー)では、男子シングルスで銀メダル、柏尾誠一郎選手(1892~1962)と組んだダブルスでも銀メダルを獲得。日本初の五輪メダリストとなりました。

 同年8月26日付の紙面を見ると、シングルス決勝でルイス・レイモンド選手(南ア)と対戦し、第1セットを7-5で先取。その後4-6、5-7、4-6と接戦の末、惜しくも優勝を逃しました。

 試合後、握手や撮影、サインを求めるファンに囲まれてしばらく会場を去ることができなかったようです。負けん気の強い性格で、強行日程と悪天候などが重なったものの、この惨敗は不本意だったといいます。

 1921(大正10)年、男子テニスの国別対抗戦デビスカップに日本は初参加。全英・オールカマーズ決勝(20年、現在の4強)の清水善造選手(1891~1977)や柏尾選手とともに日本代表になり、米代表のチルデン、ジョンストンに敗れて準優勝しています。

 戦後、1951(昭和26)年に日本がデビスカップに復帰する際には、日本代表チームの監督を務めました。

テニスウエアを着るワンコ拡大私もテニスを始めてみようかしら……
 その後、日本の男子テニスはしばらく世界の上位に進出できない時代が続きましたが、1995年に松岡修造選手が全英オープン(ウィンブルドン)でベスト8に進出。そして今回は錦織選手が全米オープンで決勝に進出し、その実力を世界に認めさせました。まだ24歳。錦織選手なら、いつか頂点に到達できるかもしれません。これからの活躍がますます楽しみです。


【現代風の記事にすると…】

熊谷が4強入り 全米テニス

 1日、ニューヨークでテニスの全米選手権男子シングルス準々決勝が行われ、4強が出そろった。熊谷一弥はテイル・マハンを4―6、6―3、6―0、6―1で下し、初の4強入り。熊谷は2日、ビル・チルデン(米)と対戦。その勝者が決勝で前年覇者のリンドレイ・マレー(米)と対戦する。

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください