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昔の新聞点検隊

目指せラジオ女優! 大正時代のオーディション

菅野 尚

1925(大正14)年10月3日付東京朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1925(大正14)年10月3日付東京朝日朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

「世界一」だと喜こばせて ラヂオ女優さん初試験
洋装和装とりどりの十名が 早速ながら声張り上げて歌やら声色

いはゆる「声の女優」――ラジオ・ドラマの女優さん達の初めての試験が二日午後三時から愛宕山の放送局内で行はれた、試験は長田幹彦氏に放送部長の服部氏で「われこそは!」と

意気込んで来た女優の卵さんはシメて十人、洋装ですまし込んだもの 

態々付添ひと一緒のもの学校帰りとも思はれる海老茶袴に久留米絣の活発なのなど色とりどり 先づ長田氏からラヂオドラマがどんなものであるかといふことを親切に説明があり、次で服部氏が「皆さんは世界におけるラヂオ女優の最初の人ですよ」と大きく出て一同を喜ばせ、さてその後で一般の女優と違ふこと、公益的事業だから収入の少い事、上つ方のお耳にも達するのだから言葉に注意が必要である事などを言聞かせる、それが済むと放送室から技術室、機械室と見学させ続いていよいよかんじん要の声の試験にとりかかる、先づ長田さんが

一室に控え一人づつ呼び出してマイクロホンの前に座ら「音楽は何をやりました……、生れは、お歳は、学校は?」とおだやかな質問が順次に初まる 

青山女学院、麹町高女を出たものもあれば、金龍館のオペラにゐたと云ふ人もある、長うた、清元、独唱、オルガン得意の人もある 

「ではあなたは長うたの一くさりを、何でもよろしいんですよ、だれもゐやしないからはづかしがらずやって

御覧なさい」あくまで柔かく行く 

処が何ぞ知らん教室隔った処には拡声器がチャンと置いてあり其前に服部部長が鉛筆と原稿用紙を用意して内証話まで手にとるやうに聞き込みながら「ハハハハこれはものになる、少しかたくなり過ぎてゐるネー君」と一々採点する 

その小試験の順番が次第に進んで今度は娘、令嬢、奥さんの声色使ひ分けとあって脚本の節をそれぞれ適当に読ませる 

かくて全く終ったのは七時頃、何んでも大部分は採用するさうで数日中には男優の試験があるとのことである

(1925〈大正14〉年10月3日付東京朝日朝刊7面)


【解説】

 「J・O・A・K、J・O・A・K、こちらは東京放送局」という日本のラジオ放送の記念すべき第一声が流れたのは1925(大正14)年3月22日のことです。未曽有の被害をもたらした関東大震災(23〈大正12〉年9月)からわずか1年半後。放送内容はニュース、株式市況、天気予報、演芸など様々でしたが、半年後の9月にはドラマも登場します。もちろん生放送。太鼓を使って声を反響させ、炭坑内の雰囲気を出すなどの工夫もされたそうです。

 ラジオ放送は当初、東京、大阪、名古屋の大都市だけに限られましたが、熱狂的に市民に迎えられたようです。朝日新聞社史(大正・昭和戦前編)によると、「受信契約者数は東京では(大正)14年7月末に4万5850人だったのが翌年の8月までに22万2194人と5倍近くにふえた。大阪でもほぼ同期間に4倍近いふえ方であった」とあります。

 これに目をつけたのが、大正から昭和にかけて作品を発表した小説家の長田幹彦(ながた・みきひこ)氏(1887~1964)。劇作家の長田秀雄氏の弟でもあります。

長田幹彦氏がラジオ声優を募集していることを報じる記事=1925年9月25日付東京朝日朝刊11面拡大長田幹彦氏がラジオ声優を募集していることを報じる記事=1925年9月25日付東京朝日朝刊11面
 幹彦氏は、当時の文士のなかでもラジオドラマに興味があったようで「近頃では放送局をなかば我が家のようにしてドラマの放送ごとに放送の指揮をやっている」(1925年9月25日付東京朝日朝刊11面)などと紹介されています。幹彦氏は、ラジオドラマを独立した番組にしようとラジオの役者、いわば声優を募集。声優は「芝居や映画と違って男女も年齢もかくせないから劇中の人物にふさわしい人間だけ要る」「上は60から下は6歳までの男女10人くらいを採用」(同年9月27日付東京朝日朝刊11面)。こうしてオーディションが開かれたわけです。

 このうち女優さんを選ぶ試験の様子を報じたのが今回紹介する記事です。さっそく現代の校閲記者の視点で点検してみましょう。

 1行目に「ラジオ・ドラマ」とありますが、ほかは「ラヂオ」。そろえてもらいましょう。長田幹彦氏の読み方を「をさだ」としていますが、「ながた」の間違いでしょう。当時頻繁に紙面に登場していた人ですが、どんな人なのか分かりやすいように「小説家」などの肩書を入れてはと、提案してみます。

 場所は「愛宕山の放送局内」とあります。愛宕山は東京都港区にあり、東京放送局(現在のNHK)が第一声を流した場所。記事に出てくる「放送部長の服部氏」は同局の関係者でしょうか。今なら最初に登場するときはフルネームにしています。

冒頭の記事と同じ面に載ったラジオドラマ脚本募集のお知らせ=1925年10月3日付東京朝日朝刊7面拡大冒頭の記事と同じ面に載ったラジオドラマ脚本募集のお知らせ=1925年10月3日付東京朝日朝刊7面
 服部氏は受験者に対し「世界におけるラヂオ女優の最初の人」と持ち上げています。見出しの「『世界一』だと喜こばせて」はここからとっているようですが、今なら「世界」ではなく「世界」としないとおかしいですね。

 世界初のラジオ放送については諸説ありますが、1920年にアメリカ・ピッツバーグであった大統領選の結果放送だったといわれます。「世界におけるラヂオ女優の最初の人」の真偽のほどは不明ですが、日本でも世界初から5年後には本格放送が始まったことになります。

 朝日新聞もこうした時代の波に乗ろうとしたのでしょうか。ラジオドラマの脚本を募集するお知らせを同じ日に紙面に載せています。「喜劇ラヂオ・ドラマ 脚本募集」「明るい気持ちのいい台本を 一等百円一人、二等五十円二人」と見出しでうたっています。内容は「明るく軽いもので、自然のユーモラスなもの、時事問題や事件を当てこんだものも結構です」とあります。

 応募総数は301編にのぼったそうです。幹彦氏も選考にかかわりました。残念ながら1等に該当するものはなかったものの、佳作2編を含む7編が選ばれました。そのうちの1編は紙上で数回にわたり、あらすじが公開されたほか、実際にラジオドラマで放送されました。主役の女性は、放送当日の晩は絶食するなどして芝居の雰囲気を出すよう工夫したい、と意気込む様子も報じられています。


【現代風の記事にすると…】

ラジオ女優めざし初試験 応募10人 東京の放送局

 いまはやりのラジオドラマに出演する「声の女優」さんを選ぶ初めての試験が2日午後3時から、東京・愛宕山の東京放送局内であった。

 「われこそは!」と意気込んで来た女優の卵は計10人。洋装ですまし込んだ人、付き添いと一緒の人、学校帰りと思われる海老茶(えびちゃ)のはかまの人など装いは色とりどり。小説家の長田幹彦さんと同局放送部長の服部●●さんによる試験を受けた。

 受験者は、まず長田さんからラジオドラマとはどんなものかの説明を受けた。次いで服部さんに「皆さんは世界初のラジオ女優ですよ」と言われると一同喜んだ。

 一般の女優と違うこと、公益的事業だから収入が少ないこと、言葉に注意が必要であることなどの説明を受け、さらに放送室から技術室、機械室を見学。その後、いよいよ試験が始まった。

 長田さんが一人ずつ部屋に呼び入れ、マイクの前に座らせて「音楽は何をやりましたか? 生まれは? ご年齢は? 学校は?」などと穏やかに質問。青山女学院、麹町高女出身の人、金龍館のオペラにいたという人、長唄、清元、独唱、オルガンが得意な人など受験者の経歴はさまざまだ。

 「あなたの得意の長唄をちょっとやってみてください。誰もいないので緊張しないで」と長田さんが優しく促すが、実は少し離れた所に拡声器が置いてあり、その前で聞いていた服部さんが「これはものになる」「少し硬くなりすぎている」などと採点していた。

 脚本の一節を娘、令嬢、奥さんの声色を使い分けて読むテストもあった。

 こうしてすべて終わったのは午後7時ごろ。多くの人は採用されるようだ。数日中には男優の試験もあるという。

(菅野尚)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください