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昔の新聞点検隊

「大きなうねりに妻は私の手を離れた」洞爺丸事故

加勢 健一

1954(昭和29)年9月28日付 朝日新聞東京本社版朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています。個人情報保護のため、一部字を伏せています拡大1954(昭和29)年9月28日付 朝日新聞東京本社版朝刊7面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています。個人情報保護のため、一部字を伏せています
【当時の記事】

悲惨!最後の一瞬
洞爺丸遭難者に聴く
下船希望を拒まる
抱き締めた新妻も激浪へ

【函館発】「結婚して八カ月目の妻を目の前で殺してしまった」と青森県南津軽郡●●町●●●●さん(二八)は函館市富田病院のベッドに身を横たえながら当時の模様を次のように語った。

妻と2人で北海道へ行商に来た帰り洞爺丸に乗ったが、あの暴風ではどうしようもなく下船することにした。ところが船ではタラップを降してくれず、船員は「こんな台風は大丈夫だから」とガンとして受付けてくれなかった。私たちの他にも多くの乗船客が下船したいと相当さわいだが、船ではどうしても受付けてくれなかった。

午後五時半にもなったろうか、船のマイクは「風は三十メートル程度で落ちついているから安心して下さい」と放送し、新たにドヤドヤと客を乗船させた。船は桟橋を激浪にもまれながら出航したが、三十分ぐらいで航行不能となりイカリを下した。船は右に左に、立っていられないほど揺れた。

ボーイは盛んに「大丈夫だ」と客をなだめるが、私にはその時いやな予感がし、大変なことになるなと思った途端、船が四十五度も傾き、私たちの三等船室にデッキから海水が流れ落ちて来た。水をかぶった人々が、わめくうちに船は再び六十度も傾き、すでに船室にたまった水に子供や女が浮き沈みしている姿が眼に映った。

夢中で妻の手を引き階段を上った。滝のように落ちる波を頭から浴びながらデッキに上り着いたとたんに船の横腹を流された。私は胸に妻を抱きしめながら激浪に引きずられていた。妻が「死ぬなら一緒に…」と苦しそうに私の胸の下で叫んだ。「バカをいうな」と励ましたとき、大きなうねりに妻は私の手を離れ、私はブイに頭をぶつけてとっさにこれにつかまってしまった。

そのまま浜に打上げられ、病院に運ばれた。しかし妻を思うと一人でのうのうとベッドに寝ていることはできなかった。看護婦さんの目をかすめて七重浜にかけつけてみた。一日浜で「●●●…●●●」と妻の名を呼んで探し求めたが、力尽き浜に倒れ、再び病院に担ぎ込まれていた。

(1954〈昭和29〉年9月28日付 朝日新聞東京本社版朝刊7面)


【解説】

 今月は台風18、19号が相次いで日本列島に上陸し、災害の爪痕を残していきました。19号が上陸したのは10月13日。「体育の日」のこの日は全国的にスポーツイベントが予定されていましたが、軒並み中止に。屋外活動を満喫する絶好のシーズンであるはずが、昨今は台風の進路にスケジュールを左右され、泣かされることも少なくありません。

洞爺丸転覆を伝える紙面=1954年9月27日付東京本社版朝刊1面拡大洞爺丸転覆を伝える紙面=1954年9月27日付東京本社版朝刊1面
 過去の台風被害を振り返る時、室戸台風(1934年)や伊勢湾台風(59年)などと並んで取り上げられるのが、洞爺丸台風(54年)です。

 この台風の名称の由来となったのが、当時、北海道・函館―青森間を結んでいた青函連絡船の洞爺丸。54年9月26日、北上してきた台風15号の暴風雨により洞爺丸は沈没、乗員・乗客1314人のうち、1155人が亡くなる大惨事となりました。

 乗船者の9割近くが犠牲となる中、奇跡的に助かった人物の貴重な証言が当時の新聞記事で紹介されていました。新婚の二人が大波に引き裂かれるさまは、映画「タイタニック」の一場面をほうふつとさせるようで、胸が締め付けられます。

 校閲記者の視点で、点検していきましょう。

 まず、メーンの見出しに「悲惨!最後の一瞬」とありますが、感嘆符の「!」が使われているのが気になります。強調を表すための記号ですが、これを見出しに使うと、何だか主観的な印象を受けてしまいます。とりわけ今回のような大災害では、ことさら「!」を使わなくともその「悲惨」さは十分に伝わるというものです。

 別の見出しには「下船希望を拒まる」とあります。「拒まる」は決して脱字ではなく、「拒まれる」のかしこまった形、あるいは文語的な言い回しです。戦前なら頻繁に紙面に登場し、文法的にも正しい言い方ですが、現代の新聞ではまず使いません。

転覆翌日の夕刊でも1面のほぼ全部を使って被害の大きさを伝えた=1954年9月27日付東京本社版夕刊1面拡大転覆翌日の夕刊でも1面のほぼ全部を使って被害の大きさを伝えた=1954年9月27日付東京本社版夕刊1面
 記事に目を移すと、船員の言葉として「風は三十メートル程度で~」という表現が登場します。単に「30メートル」では不親切なので「風速30メートル」と補いたいところです。紙面で単に風速と言えば「10分間の平均風速が秒速○メートル」であることを指します。風速は台風の勢力の目安となるもので、気象庁では、最大風速が秒速33メートル以上なら「強い台風」、44メートル以上なら「非常に強い台風」というように呼び分けています。

 また、証言のなかには「ボーイ」という言葉が出てきますが、これは「接客係」などと補足したほうが分かりやすいでしょう。

 洞爺丸沈没事故は、英国の豪華客船・タイタニックの沈没(1912年)に次ぐ規模の海難事故として歴史に刻まれることになりました。なぜ、このような惨劇が起きたのでしょうか。

 事故の当日、台風15号は勢力を強めながら、時速100キロという異常な速さで日本海上を北へ進み、北海道に迫りました。ところが、生還した洞爺丸の2等運転士の証言(9月28日付朝刊1面)によると「(午後)5時半ごろ天気がよくなった。(中略)ナギ次第青森へ行くのだから(乗客を)乗せておいてもよいのではないか、という考えで降ろさなかった」というのです。冒頭で取り上げた男性も「多くの乗船客が下船したいと相当さわいだが、船ではどうしても受付けてくれなかった」と証言しており、この時点で洞爺丸はあくまで乗客を乗せて出航しようとしていたことが分かります。

 当時、事故を調査した海難審判所の資料にも「(午後)5時には風力は急に弱くなり、雲が切れて晴れ間も見え、一見台風の中心に入ったような様相を呈した」とあります。台風の勢力がいったん弱まったように見えたことが、出航の可否の判断を誤らせる一因となった可能性があります。

 気象衛星はまだ運用されておらず、予報が現代ほどの精度を持たなかった時代です。洞爺丸の2等運転士は「楽な航海ではないが、青森には行きつけると思っていた」とする半面、「結果論としては、台風に対する見通しが甘かった」とも語っています。いずれにせよ、出航を取りやめる決断が下され、乗客が避難していれば……と考えると残念でなりません。

津軽海峡は青函トンネルで結ばれ、連絡船は廃止された=1988年3月14日付東京本社版朝刊1面拡大津軽海峡は青函トンネルで結ばれ、連絡船は廃止された=1988年3月14日付東京本社版朝刊1面
 事故から60年がたった今年9月26日、洞爺丸が沈没した七重浜(北海道北斗市)の「台風海難者慰霊碑」前では法要が営まれました。遺族会の会長は「事故は風化してきているが、後世に伝えたいと法要を続けてきた」とあいさつしました。

 青函連絡船は88年に廃止され、同時に青函トンネルが開通、津軽海峡は海の下を走る鉄道で結ばれました。2016年3月には北海道新幹線が開業し、本州と北海道の距離はさらに縮まります。時代は移り、交通や気象観測の技術は目覚しく発達しましたが、自然災害に対する備えそのものは怠るわけにいきません。洞爺丸の悲劇は、今も我々に教訓を与え続けています。


【現代風の記事にすると…】

「大きなうねりに妻は私の手を離れた」洞爺丸生還者が証言

 【函館発】「結婚して8カ月目の妻を、目の前で殺してしまった」

 青森県南津軽郡の●●●●さん(28)は北海道函館市内の入院先で取材に応じ、洞爺丸沈没事故の様子を詳細に証言した。

 妻と2人で北海道へ行商に来た帰り、洞爺丸に乗ったが、あの暴風ではどうしようもなく、下船しようとした。ところがタラップを下ろしてくれず、船員は「こんな台風は大丈夫だから」と頑として受け付けてくれなかった。私たちの他にも多くの乗船客が下船したいと相当騒いだが、どうしても受け付けてくれなかった。

 午後5時ごろ、船内では「風速30メートル程度で落ちついているから安心して下さい」という放送が流れ、新たに客を多数乗せた。船は桟橋を激しい波にもまれながら出航したが、30分ぐらいで航行不能となりイカリを下ろした。船は右に左に、立っていられないほど揺れた。

 ボーイ(接客係)は盛んに「大丈夫だ」と客をなだめたが、私は嫌な予感がし、大変なことになると思った。その途端、船が45度も傾き、私たちの3等船室にデッキから海水が流れ落ちてきた。水をかぶった人々がわめくうちに船は再び60度も傾き、すでに船室にたまった水に子供や女性が浮き沈みしている姿が見えた。

 夢中で妻の手を引き階段を上った。滝のように落ちる波を頭から浴びながらデッキに上り着いた途端、船の横腹を流された。私は胸に妻を抱き締めながら激しい波に引きずられた。妻が「死ぬなら一緒に……」と苦しそうに私の胸の下で叫んだ。「馬鹿を言うな」と励ました時、大きなうねりに妻は私の手を離れ、私はブイに頭をぶつけてとっさにこれにつかまってしまった。

 そのまま浜に打ち上げられ、病院に運ばれた。しかし妻を思うと一人でのうのうとベッドに寝ていられなかった。看護師の目を盗んで七重浜に駆け付けた。一日中、浜で妻の名を呼んで捜したが、力尽きて浜に倒れ、再び病院に担ぎ込まれた。

(加勢健一)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください