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昔の新聞点検隊

湯川博士に日本初のノーベル賞

薬師 知美

1949(昭和24)年11月4日付東京本社版朝刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1949(昭和24)年11月4日付東京本社版朝刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

湯川博士にノーベル賞 日本人で最初の栄誉

【ストックホルム三日発UP=共同】スウェーデン科学学士院は三日、一九四九年度のノーベル物理学賞を日本の湯川秀樹教授に授与した、日本人がノーベル賞を授与されたのは今回が最初である

世界に輝く『中間子論』 現に渡米中 兄弟そろって学者

湯川秀樹博士は中間子理論の研究で知られる世界的な理論物理学者で、明治四十年一月地理学の権威京都大学名誉教授小川琢治博士の三男として生れ、今年四十三歳、長兄は東大工学部教授小川芳樹博士、次兄茂樹氏は元東方文化研究所長、令弟環樹氏は東北大学教授、いわゆる湯川四兄弟の一人で、二人の姉もそれぞれ電気学の権威小川一清博士、京大工学部教授武居高四郎博士夫人という有名な科学の家系である

湯川博士は和歌山県出身、昭和四年京都大学理学部を卒業 同十三年阪大助教授のとき三十二歳で理学博士、同十四年京大教授となった、湯川粒子(今日〝中間子〟と呼ばれる原子核内の未知の新粒子)の存在を理論的に予言したのは昭和十年、同氏がまだ二十九歳のときだった、昭和十五年学士院恩賜賞を受け、同十八年三十七歳で文化勲章を授与され、同二十一年学士院会員

昨二十三年九月米プリンストン高等学術研究所に招かれ澄子夫人とともに渡米、現在はコロンビア大学客員教授としてニューヨークにあるが、昨年もノーベル賞候補になったといわれる

(1949〈昭和24〉年11月4日付東京本社版朝刊1面)


【解説】

2014年10月8日付東京本社版朝刊1面拡大2014年10月8日付東京本社版朝刊1面
 今年10月7日、日本の3人の研究者、赤崎勇・名城大教授、天野浩・名古屋大教授、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授にノーベル物理学賞が贈られることがスウェーデン王立科学アカデミーから発表されました。日本のノーベル賞受賞者は、20、21、22人目。2000年以降は受賞の間隔も短くなって、ずいぶん増えた感があります。では、日本で初めて受賞者となったあの人のときはどんな記事だったのでしょうか。湯川秀樹氏のノーベル賞受賞が決まった1949(昭和24)年の11月4日付の朝刊です。

 見出しは「湯川博士にノーベル賞」「日本人で最初の栄誉」。戦後の紙面とあって違和感のない見出しですが、前文を読むと「スウェーデン科学学士院は……ノーベル賞を日本の湯川秀樹教授に授与した」とあります。これは正確ではありません。授与することを決めたという発表であって、12月の授賞式で正式に賞を受けるのです。

 実は今でも間違いやすい点で、校閲記者はこうした記述に目を光らせています。授賞の発表から授賞式までの間、「今年のノーベル賞を受賞した」「ノーベル賞受賞者の」と書くのは誤り。「受賞が決まった」「賞が贈られる」などにしなければなりません。

 当時の記事も、後段ではきちんと書いています。「十二月十日ストックホルムで行われるノーベル式典の席上湯川博士に手渡される」と。授賞式が12月10日に行われるのは現在も変わりません。アルフレッド・ノーベルの命日ですね。

 本文の見出しで「現に渡米中」とあるのは、今なら「現在は米国滞在中」などとするところでしょうか。また、湯川氏の父親を紹介するくだりで「地理学の権威」、湯川氏の姉の夫を紹介して「電気学の権威小川一清博士」としていますが、「権威」という言葉もえらいという印象は与えますが抽象的ですよね。やはり「どこで教授をしている」だとか「××分野のノーベル賞といわれる○○賞を受けた」と受賞歴を紹介するとか、どの分野でどういう位置にいる人なのかが伝わる具体例を挙げるのが良いのではと指摘します。当時と比べると、「権威」という言葉のイメージが良いものばかりではない現在では、言葉から受ける印象に違いがありそうですね。

 さて日本初の受賞とあって、さまざまな続報も載ります。翌日朝刊の1面トップは「その日の湯川博士 世界の注視を浴びて語る」。ニューヨーク滞在中の湯川氏に記者がインタビューしています。湯川氏は「これにより敗戦後とかく意気のあがらなかった日本の科学者また一般の人達が多少とも元気づいて日本の再興に努力されるという結果になればこれほど喜ばしいことはない」と語っています。また中面の記事でも「こう育った湯川博士 目立たぬ〝勉強家型〟」と、湯川氏の小学生時代からの生い立ちや、親戚の驚きと喜びの言葉を紹介しています。今の紙面でも変わらず登場する人物紹介ですね。

 戦後間もない時期の湯川氏の受賞は、自身も語ったとおり、日本の人々に自信と勇気を与えました。ただ、日本初の受賞を待ち望む記事は意外にも戦前からかなりあったようです。

1921(大正10)年12月17日付東京朝日朝刊5面拡大1921(大正10)年12月17日付東京朝日朝刊5面

 大きな顔写真に「ノーベル賞金は癌研究の山極博士に」と3段見出しの記事は1921(大正10)年のものです。「山極博士に」贈られることが決まった、というのではもちろんありません。内容を簡単に。

 「ノーベル学会から……ノーベル賞金受領者の推薦依頼を受けた東京帝国大学」が、評議員会や教授会で話し合い、癌(がん)研究で知られた山極(やまぎわ)勝三郎博士を推す意見が多数を占めたが決められず、そうこうするうちに同様の推薦依頼を受けた九州帝国大学医学部が別の医学博士を推すらしいことが分かった。そこで、「必ずしも一国からの推薦者を一人に一致させる必要はないが、できれば我が国最初のノーベル賞であるから学界の情実や勢力争いを超えて東大、京大、九大の3帝国大学が歩調をそろえたい」と東大側が呼びかけて、やっとまとめることで落ち着きそうだ、という内容です。

 この頃は「ノーベル賞金」と呼び、「賞を受賞」ではなく「賞金を受領する」という言い方だったのが目を引きます。また、推薦依頼を受けて、三つの帝国大学がそれぞれに働きかけたという内実が紙面に載ってしまうというのも面白いですね。隣の記事には、同様に「平和賞金」の推薦依頼が外務省に届いたという記事もありますが、こちらはもっと選定が難しく、「しばらく推薦者は決定しない」ことになりそうだ、としています。

1907(明治40)年7月1日付東京朝日朝刊4面拡大1907(明治40)年7月1日付東京朝日朝刊4面
 さらにさかのぼって1907(明治40)年には、「皇后宮とノベル賞金」という記事も。米国の新聞報道によると、翌年の「ノベル氏文学賞金」(現在のノーベル文学賞ですね)の受賞候補になんと日本の皇后陛下が入っていて、「十中八九は受賞者にご当選あるべしとの事なり」とあります。「歌道に御心深く日本現代文学の異常なる発達に御貢献少からず」というのが候補の理由です。明治天皇の皇后である昭憲皇太后は生涯に約3万の和歌を詠んだと言われています。

 ノーベル文学賞といえば今では毎年、村上春樹さんの名前が挙がります。日本の作家の受賞には、翻訳の壁が高いということもたびたび言われますが、もし、明治時代に昭憲皇太后に賞が贈られて世界中に和歌が紹介されるというのが現実になっていたら……今ごろ日本文学の翻訳事情はちょっと違ったものになっていたかもしれませんね。


【現代風の記事にすると…】

湯川教授にノーベル物理学賞 日本人で初

 スウェーデン科学学士院は3日、1949年度のノーベル物理学賞を日本の湯川秀樹・米コロンビア大学客員教授に贈ることを発表した。日本人がノーベル賞を受賞するのは初めて。

 湯川氏は、中間子理論の研究で世界的に知られる理論物理学者で、1907年1月、京都大学の小川琢治名誉教授(地理学)の三男として生まれ、現在42歳。長兄は東大工学部の小川芳樹教授、次兄は元東方文化研究所長の茂樹氏、弟は東北大学教授の環樹氏で、湯川4兄弟と呼ばれ、2人の姉もそれぞれ電気学、工学の研究者の夫をもち、科学の家系だ。

 湯川氏は和歌山県出身、29年に京大理学部を卒業。38年、阪大助教授のときに32歳で理学博士、翌年京大教授になった。湯川粒子(現在「中間子」と呼ばれる原子核内の新粒子)の存在を理論的に予言したのは29歳だった35年のことだ。40年に学士院恩賜賞を受け、43年に37歳で文化勲章受章、46年に学士院会員。

 昨年9月、米プリンストン高等学術研究所に招かれ、澄子夫人とともに渡米、現在コロンビア大学客員教授としてニューヨークに滞在している。昨年もノーベル賞の候補に挙がったとされる。

(薬師知美)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください