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昔の新聞点検隊

待望の大相撲九州場所 1957年

山村 隆雄

1957(昭和32)年11月25日付東京本社版朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1957(昭和32)年11月25日付東京本社版朝刊5面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

九州場所総評   玉、無欲・気力の勝利 若乃花「力の相撲」脱せず

 九州場所は予想が全く外れて、平幕中堅の玉乃海が初優勝を遂げた。九州ファンが永年待望の本場所であり、力士にとっては実質的に一年六本場所体制への突入の場所とあって、その成果は随分注目をひいたが、三、四日目が七、八分の入りだったほかは、連日東京や大阪に劣らぬほどの盛況をみせたから、興行的にはまず大成功といって差支えなかった。しかも初日から千代、鏡の両横綱が休んだのをはじめ、中途休場者が多かったにもかかわらず、これだけの成功をおさめたことは九州ファンの相撲熱がなみなみでないことを示すとともに、すでに一般の興味が千代、鏡らの既成横綱から離れて若乃花、朝汐らへ移ったことを物語る。大物力士の休場や不振にとって代って、今場所の興味をつないだものは平幕から見事に優勝をさらった玉乃海の大活躍と栃錦、若乃花の健闘であった。

○…玉乃海が平幕十四枚目の地位で優勝を遂げたことは彼の実力からすれば当然のことというべきかも知れない。しかし、二場所連続休場という大きなハンディキャップを背負い、まだ完全になおりきっていない体のコンディション、さらにもう盛りを過ぎた年齢など総合的にみた場合、その優勝は相撲史上に特筆されるべきものであろう。(中略)

 彼は得意の右を差すことよりもまず右からおっつけて相手の左差しを封ずる取口が多く、これが全部成功していた。この技は彼が前に三役の地歩を固める時にしばしばみせていたものだが、このあたりに彼が精神的にも技術的にも新規まきなおしの気持がよく現われていた。(中略)

○…今場所の若乃花はその心組み、気構えという点では大目標をつかもうという、従来より一層つきつめたものがうかがえた。途中腹下しをしたり、コンディションを幾分損ったようだが、先場所の四敗を反省し健闘したあとが立合いに努めて低い体勢で前へ出てゆく相撲ぶりに見られた。惜しまれるのは十日目時津山、十四日目栃錦との二敗である。ことに中途にして時津山に敗れたのは致命的で先場所と全く同じ過程を繰返した。結局、彼の課題はまたしても右を封じ込まれて軽量の弱点をつかれた場合の対策であり、このことは彼の相撲がやはりまだ「力の相撲」の限界を出ていないことを意味する。(後略)

(1957〈昭和32〉年11月25日付東京本社版朝刊5面)

 
【解説】

 今年も9日から大相撲九州場所が始まりました。毎年11月に開かれる九州場所は、1957(昭和32)年に始まりました。今年で58回目です。

 今回ご紹介するのは、その最初の九州場所の総括記事です。まず現代の校閲記者の視点で点検してみましょう。

 1段落目の中ほどに「初日から千代、鏡の両横綱が」とあります。「千代」は千代の山(横綱在位1951~59年)。引退後は九重部屋を起こし、多くの関取を育てています。「鏡」は鏡里(横綱在位53~58年)。今なら少なくとも記事に初めて登場する時は略さずに書きます。

 2段落目で玉乃海について「もう盛りを過ぎた年齢」とあるのは、やや失礼な表現と感じます。今なら「ベテランの域に入る」「力士として最盛期を過ぎた」などとするところでしょうか。3段落目の「このあたりに彼が精神的にも技術的にも新規まきなおしの気持がよく現れていた」。「精神的」と「気持」がダブり気味。今なら「彼精神的にも技術的にも(中略)姿勢がよく表れていた」などとしたいところです。

本場所を増やす案が出た背景と見通しについて解説した記事=1956年7月23日付東京本社版朝刊4面拡大本場所を増やす案が出た背景と見通しについて解説した記事=1956年7月23日付東京本社版朝刊4面
 4段目の若乃花についての記述の「先場所の四敗を反省し健闘したあとが(中略)低い体勢で前へ出てゆく相撲ぶりに見られた」は「健闘」より「検討」や「研究」の方がぴったりきます。58年に45代横綱となる若乃花は、当時大関でした。

 大相撲が今のように年6場所になったのは58年7月に名古屋場所が始まってから。終戦直後の1946(昭和21)年には11月の1回しか本場所が開かれませんでしたが、翌年から次第に増え53年には年4場所(東京3場所、大阪1場所)になっていました。

 57年に九州場所、58年に名古屋場所と続けざまに増やしたのは、新弟子が急増したため収入を増やす必要に迫られた、という理由が大きいようです。

 53年に相撲のテレビ中継が始まり、多くの人が自宅や街角のテレビの前でも相撲を楽しむようになりました。土俵上でも栃錦(55年に横綱昇進)と若乃花の対戦は毎回熱戦になり、いわゆる「栃若時代」が始まっていました。相撲の人気が高まり、「毎場所新たに加わる新弟子は五十人を下らない」というほど新弟子が急増していました。相撲協会は新弟子も含め協会員に食費を支給していたのですが、その資金を確保する必要があったのです。場所を増やすことに対して力士側からは「負担が増え、力士寿命が縮まってしまう」「稽古する期間がなくなる」などの反対もありましたが、待遇改善などを条件に賛成しました。

福岡での準本場所中に翌年からの本場所開催が決まり、発表された=1956年11月20日付東京本社版朝刊6面拡大福岡での準本場所中に翌年からの本場所開催が決まり、発表された=1956年11月20日付東京本社版朝刊6面
 新たに場所を開催することになった福岡と名古屋は、いずれも古くから相撲熱が高い土地柄でした。

 福岡では戦前の30(昭和5)年10月に本場所が開かれたことがあります。55(昭和30)年から2年続けて11月に準本場所(準場所とも。本場所に準ずる場所として全力士が参加するが、成績は番付には影響しない)が開かれ、成功をおさめていました。56年の準本場所中に開かれた相撲協会理事会で「福岡での本場所開催」が決まり、翌57年11月から晴れて九州場所が開かれることになりました。

 名古屋では24(大正13)年1月に、東京に代わって春場所を開催したことがありました。前年9月の関東大震災で両国国技館が焼失し、東京で本場所が開けなくなったためです。51~57年に準本場所も開かれ、57年7月には翌年から本場所として開かれることが決まりました。

初の九州場所の結果を伝える紙面。左の星取表には、幕内力士が58人も名を連ねる=1957年11月25日付東京本社版朝刊5面拡大初の九州場所の結果を伝える紙面。左の星取表には、幕内力士が58人も名を連ねる=1957年11月25日付東京本社版朝刊5面
 【当時の記事】の57年11月の九州場所の記事に戻ると、5行目で「力士にとっては実質的に一年六本場所体制への突入の場所」としているのはそんな状況だったからです。まだ名古屋場所は始まっていませんが、58年から6場所体制になることが決まっていたのです。

 ところで初の九州場所は、優勝したのは横綱や大関ではなく、前頭14枚目の玉乃海でした。今年の九州場所では前頭14枚目だと幕尻(幕内の一番下)に近い位置ですが、57年九州場所では23枚目まであったので、平幕中堅です。幕内力士は今年は42人ですが、当時は58人もいました。

 玉乃海は当時34歳。57年初場所と春場所は関脇で11勝4敗と勝ち越しました。次の夏場所の結果次第では大関も、というところで「肝臓炎」(57年5月24日付夕刊)のため途中休場。秋場所も全休していました。復帰した九州場所では15戦全勝。前年の九州準本場所でも優勝しており、九州場所「2連覇」でした。玉乃海はこの後、関脇まで地位を戻しますが、大関にはなれず61年に引退。片男波親方として横綱・玉の海らを育てます。

 九州場所は今も九州出身力士への熱い応援で知られますが、玉乃海も大分県出身。熱烈な応援を受けたようです。今場所も幕内には九州出身力士が6人います。福岡県出身の大関・琴奨菊と松鳳山、熊本県出身の佐田の海、大分県出身の嘉風、それに鹿児島県出身の千代丸、千代鳳の兄弟。声援を力にかえて活躍してほしいですね。

どすこい!拡大どすこい!
 九州出身力士以外にも今場所は見どころがたくさんあります。旭天鵬は先場所73年ぶりの40代での勝ち越しを決めました。その前の40代での勝ち越しは1941年5月場所の藤ノ里。年2場所の時代でしたから、6場所制になってからは初めてです。今場所5勝すると通算900勝に到達します。こちらも魁皇(現浅香山親方)ら過去4人しか達成していない大記録です。やっとまげが結えるようになった新関脇・逸ノ城がどれだけ活躍出来るのか、横綱・白鵬が大鵬と並ぶ史上最多32度目の優勝を果たすのか……。

 千秋楽まで手に汗を握る熱戦を楽しみたいものです。


【現代風の記事にすると…】

九州場所総評 玉乃海、無欲の勝利 若乃花「力の相撲」脱せず

 九州場所は予想が全く外れて、平幕中堅の玉乃海が初優勝を遂げて幕を閉じた。

 九州ファン待望の本場所であり、力士にとっては実質的に1年6本場所制突入の場所。観客がどの程度入るかが注目されたが、3、4日目が7~8分の入りだったほかは連日東京や大阪に劣らぬ盛況をみせた。興行的にはまず大成功と言えるだろう。

 初日から千代の山、鏡里の両横綱が休場したのをはじめ、途中から休場する者も多かった。それでもこれだけの成功をおさめたことは九州ファンの相撲熱がなみなみならぬことを示している。同時にファンの関心が千代の山や鏡里らのベテラン横綱から離れ、若乃花、朝汐らへ移ったことを物語る。休場・不振の大物力士にとって代わって、今場所のファンの興味をつないだのは平幕から見事に優勝をさらった玉乃海と、健闘した栃錦、若乃花だった。

 ○…玉乃海が平幕14枚目の地位で優勝を遂げたことは、彼の実力からすれば当然といえるかも知れない。しかし、病気による2場所連続休場とまだ完全に戻っていない体調、さらに力士としてはベテランの域に入る34歳という年齢などを考えると、その優勝は相撲史上に特筆されるべきものだろう。(中略)

 玉乃海は得意の右を差すことよりも、まず右からおっつけて相手の左差しを封じる取り口が多く、これが成功していた。この技は彼が前に三役の地歩を固める時にしばしばみせていたものだ。このあたりに彼が精神的にも技術的にも原点に戻ってやり直そうとする姿勢がよく表れていた。(中略)

 ○…今場所の若乃花は、横綱という大目標をつかもうという意気込みがうかがえた。途中体調を崩したようだが、先場所の4敗を反省し研究した成果が、立ち合いに低い体勢で前へ出てゆく相撲に出ていた。惜しまれるのは10日目の時津山、14日目の栃錦に喫した2敗。特に格下の張り出し関脇・時津山に敗れたのは致命的だった。右を封じ込まれて軽量の弱点をつかれた場合の対策が相変わらず課題として残り、このことは若乃花がまだ「力の相撲」の限界から抜け出せていないことを意味する。(後略)

(山村隆雄)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください