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昔の新聞点検隊

夢も5倍に? 100万円宝くじ発売!

菅野 尚

1947(昭和22)年12月2日付東京本社版朝刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1947(昭和22)年12月2日付東京本社版朝刊2面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

買手はすこぶる慎重 〝百万円宝くじ〟売出す

一日から街に現われた百万円宝くじ、ドット押寄せると思いきや、銀座街の売屋でも「初日の売上枚数は二十万円当時の三分の一だ、前のように気軽に買ってくれないね、馬券でも買うような目付だよ」と五十円也(新生五本差引三十円)の慎重な投資振りをもどかしがる、御本家の勧銀では「初売り二十万円時代の倍ぐらいだ、シリ上りによくなるだろう」と宣伝するが買わないお客の言い分は、大多数「煙草が悪いよ、ピースかコロナなら……」

サラリーマン「ラッキョ生活も大詰めで五十円もムダに出来んよ」

娘さん「宝くじではさんざんムダをしましたからもうこれ以上……」

時々サッと千円なりを投出す廿枚組の中のおかみさん「当るような気がするので…」と逃げるよう―、午後三時ごろまでの売れゆきは池袋百枚、上野四百枚、東京駅百枚、銀座百五十枚(一店平均)

勧銀の広告が〝宝くじはどんな人に当るか〟の見出しで八月の当り統計をかかげて「廿万円当選十四名中十名が戦災者、そのお金は事業資金や家財購入や娘さんの結婚費に使われました」とあおり、各くじ場には人気歌手や広告車を繰り出し、かくて本年最後の新円吸収大攻勢が始った

(1947〈昭和22〉年12月2日付東京本社版朝刊2面)


【解説】

 師走といえば何を思い浮かべるでしょう。大みそかに抽選がある1等5億円の年末ジャンボ宝くじを楽しみにしている人も多いのではないでしょうか。最近はドリームジャンボ、サマージャンボ、オータムジャンボと、ちょっと食傷気味ですが、戦後間もない1947年12月に売り出された宝くじは1等100万円と、賞金額はそれまでの5倍になりました。描く夢も5倍になったのでしょうか? 今回紹介する記事はその売り出し初日の風景です。

 全国自治宝くじ事務協議会の公式サイトによると、くじの歴史は2千年ほど前のローマ時代までさかのぼるといいます。日本では江戸時代の「富くじ」が庶民の人気を集めましたが、あまりの人気に幕府が禁じ、明治政府も法律で禁止しました。

 第2次大戦末期に政府が軍事費調達を目的に「勝札」を販売。戦後は現在の「宝くじ」に名前を変え、45年10月29日に初の宝くじが日本勧業銀行(現・みずほ銀行)を通じて売り出されました。

「あすから宝籖」の記事の下に、「恐るべき闇値」の記事=1945年10月28日付東京本社版朝刊2面(レイアウトを加工しています)拡大「あすから宝籖」の記事と、「恐るべき闇値」の記事=1945年10月28日付東京本社版朝刊2面(レイアウトを加工しています)

 最初のくじは1枚10円で1等賞金10万円100本、2等1万円300本などでした。ほかに1等に純綿生地約45メートルがつきました。ワイシャツなら30枚つくれたそうです。また、外れくじ4枚でたばこ10本がもらえました。当時の物価はどうだったのでしょうか。朝日新聞が10月に「恐るべき闇値 警視庁で調査」と報じた記事によると「ヤミ値で米1升(約1.5キロ)70円、牛肉100匁(375グラム)22円、清酒1升350円、冬オーバー160円」などとしています。くじは1億円分用意したうち8~9割が売れるなど好評だったようです。

 さて紙面をみてみましょう。1等賞金は当初の10万円から2年後の47年最初のくじは20万円、年末には5倍の100万円にまであがりました。背景にはすさまじいインフレがあったようです。「宝くじの歴史」(日本宝くじ協会編集)によると「ある鉄鋼会社の大学新卒者の初任給は45年の75円から47年に560円と約8倍に増えたものの、物価の値上がりは激しく白米10キロの消費者価格は45年12月の6円から47年11月の149円になるなど25倍に」なったといいます。

 くじ1枚の値段は20円から50円になっています。賞品はなく賞金だけで特等の100万円は10本、1等10万円は90本でした。記事に出てくる「新生五本」はたばこのことで、くじ1枚につき5本がつきました。ただ新生は当時出回っていた他の銘柄より質が悪かったらしく、「煙草(たばこ)が悪いよ、ピースかコロナなら……」という声があがりました。

最高賞金100万円の宝くじが発売されることを報じる記事=1947年10月12日付東京本社版朝刊2面拡大最高賞金100万円の宝くじが発売されることを報じる記事=1947年10月12日付東京本社版朝刊2面
 最高賞金100万円の宝くじが発売されるというニュースは、10月ごろ新聞各社が一斉に報じて前評判は高かったそうです。ただ売り出してみると、東京都内の売り場では記事にあるように芳しいものではなかったようです。「ラッキョ生活も大詰めで五十円もムダに出来んよ」というサラリーマンの声が紹介されています。敗戦後、物資の乏しい時代、都市部の住民は着物や家財を農村で食糧と物々交換してしのぎました。タケノコの皮を1枚ずつはぐように売り食いすることから「タケノコ生活」と呼ばれました。記事の「ラッキョ生活」は、タケノコがさらに小さくなりラッキョウの薄皮をむくような日々の例えでしょうか。少しわかりにくいので、説明を入れてはと提案してみます。

 ただ地方での売れゆきはよく、「宝くじの歴史」によると「新潟県は初日に200万円を売ってしまい150万円の追加を要求してきた(読売新聞・12月12日)」といいます。12月10日過ぎからは都内でも売れ出したそうで、結局9割近くが売れたといいます。記事の最後に出てくる「新円吸収大攻勢」の新円は46年2月の預金封鎖で始まった通貨切り替えのこと。旧円は紙くず同然になったそうですが、宝くじの売り上げにはあまり影響を与えなかったようです。

 インフレの世の中とはいえ文字どおりの百万長者が誕生するとあって、「100万円宝くじ」は共同通信社が選ぶこの年の10大ニュースの10位にもなりました。

 79年の「第151回全国自治宝くじ」からは「ジャンボ」と呼ばれ、最高賞金も3千万円に。賞金はだんだんと増え、今では年末ジャンボなら5億円(前後賞を合わせると7億円)になりました。不況の影響などで売り上げが減った時期もありますが、宝くじの年間総売り上げは1兆円前後で推移しているといいます。


【現代風の記事にすると…】

100万円宝くじ発売 買い手は慎重

 1日に発売された、最高賞金100万円の宝くじ。買い求める人がどっと押し寄せるかと思われたが、東京・銀座の売り場では「初日の売上枚数は20万円当時の3分の1だ。前のように気軽に買ってくれないね。馬券でも買うような目付きだよ」と担当者。1枚50円(たばこ・新生5本分を差し引くと30円)になっての慎重な投資ぶりをもどかしがる。

 販売元の日本勧業銀行は「年頭の20万円の時の倍くらいの売れ行きだ。しり上がりによくなるだろう」と宣伝するが、買わないという人に聞いてみると大多数は「たばこが悪いよ。ピースかコロナなら……」。懐の寒そうな通りかかりのサラリーマンも「ラッキョウ生活も大詰めで50円もムダにできないね」。タケノコ生活より苦しいラッキョウの薄皮をはぐような生活だという。遠くから眺めていた娘さんは「宝くじではさんざんムダをしましたからもうこれ以上は」ときっぱり。1千円をさっと投げ出し、20枚組を購入したおかみ風の女性は「当たるような気がするので」と言って逃げるように立ち去った。午後3時ごろまでの売れゆきは池袋100枚、上野400枚、東京駅100枚、銀座150枚(1店当たり平均)だった。

 勧銀は8月に「宝くじはどんな人に当たるのか」という見出しを掲げた広告を出し、「20万円当選の14人中の10人が戦災者。そのお金は事業資金や家財購入、娘さんの結婚費用に使われました」と購入を呼びかけ、各くじ売り場には人気歌手や広告を載せた車を投入しアピール。こうして今年最後の「新円」を取り込もうとする大攻勢が始まった。

(菅野尚)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください