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昔の新聞点検隊

1909(明治42)年3月29日付 東京朝日 朝刊3面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1909(明治42)年3月29日付 東京朝日 朝刊3面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

「天主教徒としての黒田如水」の記事全体。赤い部分が今回の記事拡大「天主教徒としての黒田如水」の記事全体。赤い部分が今回の記事
▲清正の仏教と如水の天主教 加藤清正は如水の交友にして相携へて朝鮮征伐に従軍せしが清正は仏教に熱心にして深く天主教を嫌ひ宣教師及び其信徒を悪みたりき 故に関ケ原の戦役後加藤氏は宇土城に小西行長を撃ちて其城を奪ひたりしが城中に宣教師二人あるを見て之をも殺さんとせしに黒田氏之を聴きて清正を慰諭し之を長崎まで送還せり 加之此以後宣教師等の清正の領地内に入りて自由に伝道することを許諾するの約をも成さしめたりき 其時清正は如水に向って曰く 吾れ小西行長と隙あり為に引いて天主教をも疎外したるが敢て宗教其物を悪みたるにあらずと 又関ケ原の戦局を終りたる時如水は其の子長政に命じて天主教信者たる諸士にして敗衂せしもの若し福岡に来り投ずることあらば宜く之を好遇すべしと謂へり 其亡士中には明石守重、毛利秀包の長子某等ありたり 斯くの如く誠実と熱信を以て教会其他の保護に任じたるが故に公臨終に際しては上下衆庶哀哭措くことを知らず恰も考妣を喪するが如く深憂に沈みたりと云ふ 于時慶長八年なり

▲如水公の送葬 当時の宣教師の説くところに由れば如水公の屍体は之を故国に送還し宣教師等護衛にて筑前博多まで追随し同地に於て新に聖堂を建てて其中に埋葬し盛大慎重なる儀式を執行したりき 但し此事は公が薨去の前に於て長政に遺命し建築費として金一千枚を寄附し置きたるなり(横浜天主公教会にて朝香薫)

(1909〈明治42〉年3月29日付 東京朝日 朝刊3面)


【解説】

 衆院選に押される形で、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の最終回の放送が1週間延期され、21日になりました。キリシタンとしての黒田官兵衛を紹介する明治期の記事をとりあげた、この昔の新聞点検隊・官兵衛シリーズも、ドラマ最終回を受けて終わり、の予定だったのですが……。

 今回は、最終回と重なるであろう晩年部分を最後に取り上げています。急なことで、ネタバレになってしまう恐れもありますが、ご容赦ください。前回は、1580年代が舞台でした。まずその後の経過をざっと説明します。

 九州平定戦後、官兵衛は新たな領地として豊前国(今の福岡県東部と大分県北部)の一部を得ます(1587年)。貢献度からすると十分とはいえない報償。バテレン追放令(同年)を出した豊臣秀吉が、官兵衛がキリシタンだったことを疎んじたからとも言われています。しかしその後も秀吉に仕え、天下統一の達成(1590年)に尽力。2度の朝鮮出兵(1592~93、1597~98年)でも渡海します。その間も秀吉の不興を買うことがあり、隠居して家督は息子の長政に譲りました。その後は如水と号します。

加藤清正像。清正は熊本の人々に今も親しまれている=熊本市西区、写真はいずれも広瀬集撮影拡大加藤清正像。清正は熊本の人々に今も親しまれている=熊本市西区、写真はいずれも広瀬集撮影
 その秀吉が死去し、舞台は関ケ原の戦いへ(1600年)。官兵衛は徳川家康方についた長政に呼応するように、九州で兵を挙げ、九州の石田三成方の諸勢力を一気に下していきます。一説には天下を狙っていたとも言われ、ドラマはその方向で描かれていましたね。

 では、記事を見てみましょう。官兵衛と同じく家康方として九州で挙兵した、加藤清正が登場します。清正は当時、肥後国(現・熊本県)の北半分の領主。南半分を治めていた「小西行長を撃ちて」その城を奪った、とあります。

 しかし実際には、行長は関ケ原の戦場(現・岐阜県)で三成方の主力として戦い、敗れています。肥後に帰ることなく三成らとともに京都で斬首に。ここは「小西行長」とはせず「小西勢」などとしておきましょう。

 行長は、宣教師たちに当時最も頼られていたキリシタン大名で、領内でもキリスト教が盛んでした。一方の清正は仏教徒。行長領に侵攻した清正は、宇土城で宣教師たちを捕らえます。宣教師側の記録を見ると、記事にあるように、官兵衛はこれを助けようとしたことが分かります。

 官兵衛は「熱心に直接交渉にあたった」(「1600年度年報補遺」〈『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第1期 第3巻』〉)とありました。一方では原マルチノ(天正遣欧少年使節の一人)が派遣されるなど宣教師側からの働きかけなどもあったようですが、清正はあくまで「官兵衛殿から懇請されたことに基づいて彼らを釈放する気になった」「彼のような殿に役立ちたいからするのだ」「官兵衛殿に感謝せよ」(「1599~1601年、日本諸国記」〈『同』〉)といって宣教師を解放したとのこと。官兵衛を「いとも尊敬」していたそうで、官兵衛を立てるような清正の気遣いがうかがえて面白いですね。

 実は官兵衛は、関ケ原の頃までしばらくキリスト教への関心が薄らいでいたようでした。「官兵衛殿が高邁(こうまい)にして信心深いキリシタンとして望まれる良き模範を以前ほど示してはいない」と記録にあります。そこで宣教師側は、豊前から宣教師を引き揚げさせる、と伝えたところ、官兵衛は「驚き狼狽(ろうばい)」し、「大いに後悔」して「告白をし生活を正すとの誓いを果たすと約束」したというエピソードが残っていました(「1599~1601年、日本諸国記」)。どこまでが事実かは分かりませんが、こういうこともあって官兵衛のキリシタン熱は再燃し、清正に働きかけたのかもしれません。

 なお記事中にある清正の、「吾(わ)れ小西行長と隙(げき)あり……」のくだりは、記録では官兵衛に向かってではなく、マルチノと面会した際の言葉として紹介されていました。ちなみに清正は結局この少し後に、またキリシタン弾圧へと傾いていきます。記録でもあっという間に「暴君」「生来残忍至極な男」扱いとなるのでした(「1601、1602年日本の諸事」〈『同 第1期 第4巻』〉)。


 記事は続けて、官兵衛の最期に言及します。いかに何百年も前の歴史上の人物とはいえ、これだけ大きく取り上げているのですから「屍体(したい)」は失礼ですね。「遺体」にしましょう。また、没年ですが、これは国内史料、宣教師側の史料ともに慶長9(1604)年としているので、これも指摘しておきます。

福岡城(天守台)跡。現在は石垣や櫓(やぐら)などが残っている。奥にヤフオクドームが見える。官兵衛は三の丸で晩年を過ごしたという=福岡市中央区拡大福岡城(天守台)跡。現在は石垣や櫓(やぐら)などが残っている。奥にヤフオクドームが見える。官兵衛は三の丸で晩年を過ごしたという=福岡市中央区
 黒田家の公式の歴史書といえる「黒田家譜」では、官兵衛は福岡城で亡くなったとしています。関ケ原の合戦後、その活躍を家康に認められて、息子の長政は筑前国(現・福岡県の北西部)の領主となり、福岡城を建てます。官兵衛も一緒に福岡に移ったので、福岡城で息を引き取ってもおかしくはありません。

 しかし記事では遺体を「故国に送還し」たとあります。再び宣教師側の記録を見てみましょう。「官兵衛殿は都の伏見の政庁で亡くなった。息子に、自分の遺体を運び博多の教会に埋葬するようにと頼」んだとありました(「1603、1604年日本の諸事」〈『同』〉)。伏見は当時の家康の拠点の一つです。日本側の史料でも、前年から体調を崩し、有馬温泉(神戸市)に湯治に出かけていたことなどが分かっているため、現在は伏見説が有力なようです。

崇福寺の黒田家墓所。官兵衛(中央)と長政(左)の墓が並んでいる=福岡市博多区拡大崇福寺の黒田家墓所。官兵衛(中央)と長政(左)の墓が並んでいる=福岡市博多区
 さらに、家譜では遺体を「崇福寺に葬る」としています。崇福寺は黒田家の菩提寺(ぼだいじ)として現在も福岡市博多区にあり、歴代当主らの巨大な墓が並んでいます。もちろん官兵衛の墓もあります。ただ、現在の墓所に改葬した際、官兵衛の遺骨は見つからなかったようです。当時の朝日新聞も「空っぽだった如水の墓」との見出しで報じていました(1950年4月18日付 西部本社版夕刊)。

官兵衛の墓=福岡市博多区拡大官兵衛の墓=福岡市博多区
 一方記事では、聖堂を建ててそこに埋葬し、盛大な儀式を行ったとしています。その儀式に参加したという宣教師・マトスの回想録が戦後の研究で明らかになりました。「四月のある夜の十時と十一時の間、我らは彼を博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した」「墓穴は二百人も埋葬できるようなものであった」と具体的な様子が記されており、長政ら主立った者が遺体に付き添う厳粛な様子が描かれています(H・チースリク「慶長年間における博多のキリシタン」〈『キリシタン研究 第十九輯』〉)。聖堂ではないものの、どうも博多でキリスト教式葬儀が行われて埋葬された可能性は十分にありそうです。

崇福寺の山門。福岡城の表御門を移築したもの=福岡市博多区拡大崇福寺の山門。福岡城の表御門を移築したもの=福岡市博多区
 長政も若い頃洗礼を受けてはいますが、熱心ではなく、宣教師側の記録を見ると度々そのことを指摘されています。しかしこの時ばかりは大いに感謝し、新たな教会を建てる許可を与えたそうです。一方で、幕府に配慮してか、この儀式の15~20日後には長政が仏式の葬儀を行ったとも記録されていました。

 その後聖堂(教会)は建てられたようですが、遺体をどうしたかまでは言及がありません。同じ頃、長政は京都・大徳寺に官兵衛を弔う龍光院を建てました。こちらにも現在、官兵衛のものと伝わる墓が残されています(通常拝観不可)。

 この後、江戸幕府は禁教令を出し、キリシタンを厳しく取り締まるようになりました(1612年~)。家譜などの記録にキリシタンとしての官兵衛の足跡を残せないのも無理からぬこと。結局、真相は現代まで伝わらず、官兵衛が本当に眠っている場所はよく分からないようです。キリスト教式葬儀で埋葬されたままなのか、崇福寺に葬られて後に不明となったのか、龍光院に移されたのか、それともいずれも違うのでしょうか。

 今回はほぼ宣教師側の記録だけを見てみました。存命時に書かれた優れた史料とはいえ、一方の視点からの記録。誇張もあれば誤認もあるでしょう。如水と号し剃髪(ていはつ)したことからも分かるように、仏教(特に禅宗)とも深い関わりを持っていたともされます。宣教師の記録だけが官兵衛の実像、とは言えませんが、これらの記録のおかげで他の戦国大名と比べ多彩な横顔をうかがえるというのも、官兵衛の魅力の一つではないでしょうか。

 さあ、ドラマの最終回はどのように描かれているでしょうか。楽しみですね。


【現代風の記事にすると…】

◆清正の仏教と如水のキリスト教

 加藤清正は朝鮮出兵の際に共に戦うなど、官兵衛と交流があった。しかし仏教に熱心な清正はキリスト教を嫌っていた。関ケ原の戦い後、清正はキリシタン大名・小西行長の領土に攻め入り、宇土城(現・熊本県宇土市)を奪い取った。その際に清正は2人の宣教師らを捕らえたが、官兵衛はこれを説得して命を救い長崎まで送還する。清正は領内で宣教師が自由に宣教することも認めた。その時清正は「私は行長と不和だったがために、キリスト教をも疎外していましたが、宗教そのものを憎んでいるわけではないのです」と語ったという。

 また関ケ原の戦い後、官兵衛は息子の長政に、投降してきたキリシタン大名は厚遇するように命じたため、明石全登(あかし・たけのり)らが黒田家を頼ってきた。

 このように誠実かつ熱心に教会などの保護に努めた官兵衛の臨終は、万民が嘆き、深い悲しみに暮れたという。1604(慶長9)年のことだった。

◆官兵衛の葬儀

 当時の宣教師の記録によると、官兵衛の遺体は京都・伏見から福岡・博多に送られ、埋葬された。盛大な儀式が執り行われ、聖堂を建てられたとされる。官兵衛は亡くなる直前、建築費として金1千枚を寄付するように、との遺言を残していたという。

(広瀬集)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください