メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

昔の新聞点検隊

三木武吉、執念の新党結成構想

田島 恵介

1955(昭和30)年4月13日付朝日新聞東京本社版夕刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1955(昭和30)年4月13日付朝日新聞東京本社版夕刊1面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

民主党に保守結集の機運
自由党へ近く呼掛け
三木総務会長語る 総辞職いとわず

【熱海発】民主党三木総務会長は十二日夜東京発列車で地方選挙遊説のため西下したが、車中での記者会見で、三木氏は当面の政局、三十年度本予算案を中心とする再開後の特別国会対策などについての考えを明らかにしたが、とくに民自両保守党の結集は政局安定のために絶対な条件であり、そのためには党内外の強い批判があってもあくまでも努力すると語った。民主党内部には今国会の運営が困難の度を増すにつれて次第に保守合同を呼びかけようとする動きが強まって来ており、党首脳のうちにもそのきっかけをつかもうとしてかなり活発な動きを見せた事実もあったが、党の最高幹部の一人がはっきりこの点を明らかにしたのは今度が初めてであり、それだけに反響は大きいものと思われる。ことに、これまでどちらかといえば、保守連携の障害とみられていた三木総務会長の発言だけに、民自両党、さらには革新陣営に対しても国会再開を前に一石を投じた形である。

(1955〈昭和30〉年4月13日付朝日新聞東京本社版夕刊1面)


【解説】

 1955(昭和30)年に「自由民主党」(以下自民党)が誕生して、今年の11月15日で60年。自民党は、「自由党」「日本民主党」の2大保守政党などが合併する形でできた政党ですが、55年10月の左右両社会党の統一と合わせて、戦後長く続く「55年体制」を支えました。

 2大保守政党の合併、いわゆる「保守合同」は容易ではありませんでしたが、その最大の功労者とされるのが、当時民主党の総務会長だった三木武吉(1884~1956)です。今回は、その三木が車中で保守合同の構想を語った、という記事を取り上げます。

 まずは記事の点検から始めましょう。

 最初の1~2行では、「西下したが」のあと「考えを明らかにしたが」と文が続きます。一つの文が長すぎますし、逆接の接続詞が続けて出てきて読みにくくなっています。「西下した」でいったん文を区切るよう提案します。

 また見出しにも登場する「自由党」が、記事に初めて出てくる箇所でも「民自両党」と略されています。初出のところは「民主・自由両党」としてもらいましょう。

 記事の3行目の「絶対な条件」は、現代では「絶対条件」「絶対的な条件」などと表現するのが一般的でしょう。「な」を抜くよう提案してみます。

 最後に、記事の中ほどに「保守合同を呼びかけよう」とあるところ、その前の文章や見出しでは「両保守党の結集」「保守結集」となっています。同じことを表しているのなら、「保守結集」「保守合同」のどちらかにそろえたいところです。この出来事の呼び方は、後に「保守合同」へと一本化されます。「保守結集」の方は1955年10月13日の記事を最後に見出しには現れなくなります。

 指摘はこのくらいにとどめて、三木の略歴や保守合同の背景をご紹介しましょう。

 香川生まれの三木は日本銀行職員などの職を転々とした後、1917(大正6)年に、憲政会公認で東京から出馬、32歳で初当選を果たします。新人のころから舌鋒(ぜっぽう)が鋭く、「ヤジ将軍」「弥次(やじ)の神」などの異名をとりました。とりわけ、「ダルマ」というあだ名で知られた高橋是清(1854~1936、当時は大蔵大臣)が財政演説で「陸軍は10年、海軍は8年の……」と述べた際に、議場からすかさず「ダルマは9年!」とやじを飛ばして場を沸かせた話は有名です。これは、中国の達磨(だるま)大師が少林寺で9年間、壁に向かって座禅を組んで悟りを開いたという「面壁九年(めんぺきくねん)」の故事にかけたものです。

 その後三木は、疑獄事件に巻き込まれていったん政界から身を引きますが、戦時下の42(昭和17)年4月、いわゆる「翼賛政治」に反発して大政翼賛会の推薦を得ずに立候補し、政界復帰を果たします。翌年には、同じく翼賛政治に抵抗していた鳩山一郎(1883~1959)と意気投合し、早くも戦後の構想を語り合いました。このとき、鳩山が総理大臣を、三木は衆議院議長を務めることを約束したといいます(「鳩山一郎回顧録」など)。

 しかし戦後の46(昭和21)年5月初旬、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872~1951)首相の推薦をうけて、日本自由党の鳩山が次期首相の座をつかみかけた折も折、三木は鳩山とともに公職追放の憂き目にあいます。その下旬、自由党は吉田茂(1878~1967)を後継総裁に選びます。三木と鳩山は追放が解除された後、「打倒吉田」を掲げますが、吉田は半年の間に2度にわたる解散・総選挙に打って出て抵抗しました。このあたりについては、14年12月2日更新の記事「『なれ合い解散』と伝家の宝刀」をご覧ください。

 三木は鳩山政権樹立を前提に、石橋湛山(1884~1973)や岸信介(1896~1987)ら自由党の反吉田グループや改進党をまとめあげ、54(昭和29)年に日本民主党を結成しました。総裁は鳩山、総務会長には三木が納まります。少数与党に転落した吉田内閣はついに総辞職し、54年12月、民主党を中心とする鳩山内閣が発足します。三木はこうして盟友との約束を果たしたのです。

第1次鳩山内閣発足を報じる紙面=1954年12月10日付朝日新聞東京本社版夕刊1面拡大第1次鳩山内閣発足を報じる紙面=1954年12月10日付朝日新聞東京本社版夕刊1面

 左右両社会党の支持を得て内閣を発足させたとはいえ、民主党は衆院で124議席に過ぎず、安定政権とは言えませんでした。鳩山民主党は翌年1月に衆議院を解散します(いわゆる「天の声解散」)。2月27日投票の衆院選では185議席を獲得、112議席(選挙後の追加で114議席)の自由党を上回りました。ところが左右両社会党も合わせて156議席と躍進。国際面に目を転じると、米国とソ連(当時)との対立がますます厳しくなっており、保守陣営にとっては、安定政権をつくることが急務でした。

 このような状況下での三木による談話が、今回取り上げた記事です。「当時の記事」では冒頭部分だけをご紹介しましたが、その後に続く記事で三木は、「必要ならば鳩山内閣は総辞職すべきだ」「(首班が)吉田がいいという声が大きいならそれでも結構だ」などと述べており、三木自身も「総務会長を辞めなければならぬ時は職を辞」する覚悟を示します。

自民党結党大会の様子を伝える記事=1955年11月15日付朝日新聞東京本社版夕刊1面拡大自民党結党大会の様子を伝える記事=1955年11月15日付朝日新聞東京本社版夕刊1面
 三木は、自由党の切り崩しにかかります。新党結成に積極的だった緒方竹虎(1888~1956)の感触を探った上で、有力者・大野伴睦(おおの・ばんぼく、1890~1964)に接近し、両党の総裁や幹事長を交えた会談を重ねます。

 10月13日、社会党が一足先に左右両派の統一を実現。自由・民主両党の合同は総裁問題で大もめにもめましたが、当面、鳩山内閣を存続させることにしました。ついに11月15日、自民党の結党大会が開かれました。

 三木は結党に際して、「鳩山の次は緒方、緒方の次は岸、岸の次は池田(勇人)、そこまでは読める」「これで保守の政権は10年は持つだろう」と予言したとされます(安藤俊裕著「政客列伝」)。緒方は首相を目前に急逝しましたが、自民党は「10年」どころか、93(平成5)年の「55年体制崩壊」まで与党として君臨しつづけたことは周知のとおりです。

 保守合同から1年も経たない翌56(昭和31)年7月4日、三木は71歳で死去しました。がんがその体をむしばんでいたのです。

 もし三木のような人物がいなかったなら、終戦直後の政治の混乱がもっと長く続いたかもしれません。


【現代風の記事にすると…】

三木総務会長語る 「保守合同」に尽力

 12日夜、日本民主党の三木武吉・総務会長は、西日本の地方選挙遊説のため東京を発った。三木氏はその車中の会見で、当面の政局や1955年度本予算案を中心議題とする再開後の特別国会対策などについての考えを明らかにした。そこで三木氏は、政局を安定させるためには自由・民主両保守党の合同が絶対条件であると述べた上で、それを成し遂げるためには、たとえ党内外から強い批判を受けても努力を惜しまないことを強調した。

 今国会の運営が困難となるにつれ、民主党内部では「保守合同」を呼びかける動きが強まっていた。党首脳も活発な動きを見せていたが、最高幹部が明言したのは初めて。しかも、保守合同に否定的と見なされていた三木氏の発言であるだけに、大きな反響が予想される。

(田島恵介)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください