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昔の新聞点検隊

1959(昭和34)年7月26日付東京本社版朝刊14面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1959(昭和34)年7月26日付東京本社版朝刊14面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

とっておきの話 ウイスキーと女房 竹鶴政孝

 もう四十年も前の話だ。スコットランド、グラスゴーの町で、あるパーティー帰りのわたしは連れの英国女性にいきなりプロポーズした。相手はびっくりしてわたしの顔を見返していたが、一週間後には内諾の返事をよこした。彼女は東洋びいきの医者だった父親から、またわたしも、はじめは驚き迷いもした郷里の両親から、それぞれ許しを得て、グラスゴーの教会でささやかな式をあげた。この妻リタとの家庭は、いまも続いている。

 ところで、このグラスゴーを舞台にした新生活の出発は、ウイスキーに打込むわたしの生涯の、重要な出発点ともなった。もともと妻との結びつきは、同じグラスゴー大学で妻は経済学科に、わたしはスコッチ・ウイスキーの醸造法を習得するため応用化学科に学んでいたところから生れたもので、一部でうわさされているように、秘法をつかむために醸造界に関係のある女性と結婚したという説は当っていない。

 大阪高等工業(現在の阪大工学部)の醸造科を出て、当時イミテーションのウイスキーしかつくっていなかった摂津酒造に入社したわたしは、社長の阿部喜兵衛氏(故人)から「本場のウイスキーの醸造法を覚えて来い」との特命を受け、二十四歳の単身渡航となったわけだ。しかし、グラスゴー大学から実習に行ったホワイト・ホースの工場では、極東から来た青二才には、通りいっぺんのことしか教えてくれなかった。三百年の歴史を持つスコッチ・ウイスキーの本拠であれば、それも当然のことだったのだろう。

 (以下、次回に)

(1959〈昭和34〉年7月26日付東京本社版朝刊14面)


【解説】

竹鶴政孝さん死去を報じた記事=1979〈昭和54〉年8月30日付東京本社版朝刊23面拡大竹鶴政孝さん死去を報じた記事=1979〈昭和54〉年8月30日付東京本社版朝刊23面
 日本の本格的なウイスキーの生みの親とされ、ニッカウヰスキーを創業した竹鶴政孝さん(1894~1979)とその妻リタさんをモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」。テレビドラマは、舞台を北海道・余市に移して展開中で、視聴率も好調のようです。「マッサン」という呼び名は、リタさんが政孝さんの「マサ」と日本語の敬称「サン」を合わせて呼んでいたからです。

 今回は、マッサン自身が朝日新聞に寄稿した回顧録を取り上げます。昔の新聞とはいえ、約50年前の記事は、現代仮名遣いで書かれ、難しい漢字も少なく、今の読者にもそのまま読んでいただけると思います。ただ、今の新聞ではあまり使わなくなった表現など、今の校閲記者からみるとおかしいな、と思うところを少し指摘しておきます。とても長い記事なので、2回に分けてお届けします。

 この記事は、「とっておきの話」と題したコラムで、著名人が寄稿しています。記者ではなく社外筆者が書いた原稿ということになります。

 小説や論評、投稿などの社外筆者の原稿は、その意図をくんで表記の誤りや誤字などは指摘して直してもらいますが、極力筆者の意向を尊重して載せるようにしています。

 しかし、見出しは編集者が内容を読み取って「ウイスキーと女房」と付けています。記事に「女房」という言葉はでてきません。「妻」という表現になっているので、見出しは「ウイスキーと妻」あるいは「ウイスキーとリタ」などにするよう、編集者に提案してみます。また、「イミテーションのウイスキー」と出てきますが、どのようなものでしょうか。読者には分かりづらいので、説明を加えてもらうか、イミテーションのところに「模造酒」などと補うことは可能かどうか、担当記者を通じて、筆者に確認してもらいましょう。

 では、記事を見ていきましょう。冒頭、マッサンが英国人女性リタさん(1896~1961)にプロポーズをした話から始まっています。パーティー帰りに「いきなり」プロポーズするなんて、なんて大胆なのでしょう。異国の女性に臆することのないマッサンは、とても行動力がある人だったことがうかがえます。

 NHKのドラマは、マッサン(演じるのは玉山鉄二さん)と妻エリー(シャーロット・ケイト・フォックスさん)が日本に帰国するところから、広島や大阪を舞台に始まりました。

 実際のマッサン夫妻はどうだったのでしょうか。2人が結婚に至ったなれそめと生い立ちを資料などで、少し調べてみました。

 マッサンの生家は、広島県竹原町(現・竹原市)で酒造・製塩業を営んでいました。1733(享保18)年創業という伝統ある造り酒屋で、現在も竹鶴酒造として続いています。マッサンはその三男として生まれ、忠海中学(現・忠海高校)では柔道部の主将でした。後輩に池田勇人元首相(1899~1965)がおり、ともに寮生活で寮長だったマッサンとは、後年まで交流が続いたそうです。

 兄2人が造り酒屋を継がないため、大阪高等工業学校(現・大阪大)の醸造学科に進学。卒業間近に当時の日本に新しく入ってきたウイスキーやワインに興味を持ち、高等工業の先輩が専務を務める摂津酒造(大阪市住吉区)を訪ね、そのまま入社。ブドウ酒の製造に携わります。

 当時はウイスキー原酒を使わず、アルコールや香料などを混ぜ合わせた模造のウイスキーしかありませんでした。本場のウイスキー醸造技術を習得するため、スコットランドに留学することになります。跡取り息子の留学に両親は反対でしたが、摂津酒造の阿部喜兵衛社長の説得もあり、1918(大正7)年7月に出発。米国経由で同年、グラスゴーに到着します。その後、王立工科大学やグラスゴー大学で学ぶことになります。

ニッカウヰスキーの20年もの原酒。左は余市蒸溜所(北海道工場)、右は宮城峡蒸溜所(仙台工場)のウイスキー拡大ニッカウヰスキーの20年もの原酒。左は余市蒸溜(じょうりゅう)所(北海道工場)、右は宮城峡蒸溜所(仙台工場)のウイスキー
 リタ(本名ジェシー・ロバータ・カウン)さんは、グラスゴー近郊のカーカンテロフ(現イーストダンバートンシャー市)の医師の長女として生まれます。グラスゴー大学の学生だった妹エラさんが先にマッサンと知り合い、カウン家の家族に紹介したようです。父親のカウン医師は、「医は仁術」を地でいく人で、町の人々から敬愛されていたそうです。

 マッサンとリタさんにはクリスマスプディングのエピソードがあります。英国の伝統的ケーキで、コインや指ぬきなどを混ぜ込んで運勢を占うものです。クリスマスに食卓で分けられたケーキでマッサンは銀貨を、リタさんは指ぬきを当てます。銀貨と指ぬきを当てた独身の男女は将来、結婚するという言い伝えがあったそうです。

 マッサンが渡英した目的は、もちろん結婚ではありません。本場のウイスキー造りを学ぶためでした。大学などで学ぶうちに、生涯の伴侶とも出会ったというのですから、ロマンチックな話ですね。

 記事の中では、ウイスキーの「秘法をつかむために醸造界に関係のある女性と結婚した」といううわさをわざわざ否定しています。当時はまだ珍しい国際結婚だったことから、何か誤解も受けたのでしょうか。

 さて、本来の目的だったウイスキー造り。24歳で単身渡航した若者を待ち受けていたのは、厳しい仕打ちでした。実習先では「極東から来た青二才」に、ウイスキー造りの極意を教えてくれるわけもなく、軽くあしらわれた様子が記事から読み取れます。

 それでは、マッサンはいかにして「秘法」をつかんだのでしょうか。

 続きは、次回に。


【現代風の記事にすると…】

とっておきの話 ウイスキーとリタ 竹鶴政孝

 もう40年も前の話だ。スコットランドの町グラスゴーで、あるパーティーの帰りに私は連れの英国女性にいきなりプロポーズした。相手はびっくりして私の顔を見返していたが、1週間後には内諾の返事をよこした。彼女は親日家の医者だった父親から、また私も初めは驚き迷いもした郷里の両親から、それぞれ許しを得て、グラスゴーの教会でささやかな式をあげた。この妻リタとの家庭は、今も続いている。

 ところで、このグラスゴーを舞台にした新生活の出発は、ウイスキーに打ち込む私の生涯の重要な出発点ともなった。もともと妻との結びつきは、同じグラスゴー大学で妻は経済学科に、私はスコッチ・ウイスキーの醸造法を習得するため応用化学科に学んでいたところから生まれたもので、一部でうわさされているように秘法をつかむために醸造界に関係のある女性と結婚したという説は当たっていない。

 大阪高等工業(現在の大阪大工学部)の醸造科を出て、当時、模造酒のウイスキーしか造っていなかった摂津酒造に入社した私は、社長の阿部喜兵衛氏(故人)から「本場のウイスキーの醸造法を覚えてこい」との特命を受け、24歳の単身渡航となったわけだ。しかし、グラスゴー大学から実習に行ったホワイト・ホースの工場では、極東から来た青二才には、通りいっぺんのことしか教えてくれなかった。300年の歴史を持つスコッチ・ウイスキーの本拠であれば、それも当然のことだったのだろう。

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください