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昔の新聞点検隊

1959(昭和34)年7月26日付東京本社版朝刊14面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています拡大1959(昭和34)年7月26日付東京本社版朝刊14面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
【当時の記事】

とっておきの話 ウイスキーと女房 竹鶴政孝

 (前回からの続き)

 そのときわたしは、わたしが生れた郷里のつくり酒屋のことを思い浮かべた。おれの家だって銘酒「春心」をつくった三百年ののれんのある家だ……。それからわたしは、日本の酒のうまさを、顔を合わせる人ごとに吹聴した。やがてそれがキャンベルタウンの工場の技師長でもあり、スコットランドの醸造学の泰斗でもあるイネス博士の耳に入り、思いがけなく博士からの申入れを受けた。日本の酒のつくり方、とくにコウジの使い方を教えてくれ、その代りスコッチ・ウイスキーの微妙な味や香りの出し方を教えて上げよう、というのである。この両洋の“技術交換”でやっとわたしは、年代の違った原酒をまぜて味や香りを変える「ブレンディング」の方法を習得したわけだ。

 同じ大麦を発酵させたものにも、その大麦の育った風土や気候で、また十年もの、十五年もの、十八年ものといった貯蔵期間で、それぞれ違った風味があり、さらにこれらをまぜ合せるとなるといろいろな風味が出てくる。帰国後十一年間つくった寿屋のサントリー・ウイスキーも、そのあと北海道に新天地を求めて昭和九年から始めたニッカウヰスキーも、このブレンディングの技術によっている。

 このような大先輩とのおくせぬ“技術交換”にしても、当時では破天荒だった国際結婚にしても、やはり、はたち台の若さがこれを実現させ、そしていまでもわたしの生活の大きな支えとなっているものだが、同じ若さでやってのけた、渡航途中のちょっとした思い出もある。

 出発したのは大正七年で第一次欧州大戦中だったため、アメリカ回りで行かなければならなかったが、途中ニューヨークで一か月も足止めを食ってしまった。米軍が続々欧州へ出兵している折なので、船がないのかとも思ったが、それにしてもずい分待たせるものだとやきもきしていたところ、仮泊していた学生ホテルのアメリカ青年が「ウィルソン大統領に直訴してみろ」と勧めてくれた。

 当時のわたしにしてみれば天皇陛下に手紙を出すようなもので、はじめは二の足をふんでいたが、ままよと勇気をふるって、大統領あてに電報を打ったのだ。ところが驚いたことには二日後に政府パスポート係から「直ちに出頭されたい」という手紙が届いた。飛んで行くと「まことに申訳ないが手違いで書類が遅れた」とすぐに翌日の船を手配してくれた。

 デモクラシーの国を見直した初めての経験だったが、割込ませてくれた船が兵隊の輸送船で、ドイツの潜水艇に脅かされながら大西洋を渡った。このときドカンとやられていたら、いまのわたしも、ニッカウヰスキーも存在してないのだが……。

(ニッカウヰスキー社長)
え 清水 崑

(1959〈昭和34〉年7月26日付東京本社版朝刊14面)


【解説】

 今回の記事は、マッサン(竹鶴政孝さん)の「とっておきの話」と題したコラムの続きです。

 まずは校閲記者の目で記事を見てみましょう。前回も書きましたが、社外筆者の原稿はできるだけ尊重しますが、おかしいところがあれば指摘します。50年以上前の記事なので、今ではあまり使わない表現もあります。今なら、「醸造学の泰斗」は「醸造学の第一人者」に、「はたち台」は「はたち代」、「第一次欧州大戦中」は「第1次世界大戦中」とするようお願いしたいと思います。

 記事に戻りましょう。なかなかウイスキー造りを学べずにいたマッサンですが、「イネス博士」との出会いをきっかけに、醸造や「ブレンディング」の方法を習得したことが書かれています。記事では簡単に触れているだけなので、他の資料なども調べてみました。

ニッカ創業80周年を記念して造られたウイスキー(中央)。1945年の余市蒸溜所と1969年の宮城峡蒸溜所のモルト原酒が使われている拡大ニッカ創業80周年を記念して造られたウイスキー(中央)。1945年の余市蒸溜所と1969年の宮城峡蒸溜所のモルト原酒が使われている
 イネス博士は、キャンベルタウンにあるヘーゼルバーン蒸留所の有名なウイスキーブレンダーでもあったピーター・イネス博士のことです。マッサンが学んでいたグラスゴーの王立工科大学の教授の友人でした。キャンベルタウンはスコットランド・グラスゴーの西南、キンタイア半島の先端にある街です。当時は多くの蒸留所があり、スコッチ・ウイスキーの中心地とも言われていました。

 マッサンがグラスゴーに着いたのは、1918(大正7)年の暮れ。ウイスキーの仕込みや蒸留は冬から春ごろにかけて行われます。何のツテもなく渡英した「東洋の青二才」には苦労の連続で、マッサンはいくつもの蒸留所を訪ねて教えてくれるよう直談判したようです。やっと翌年4月、ある蒸留所で短期間の「実習」を許可され、貴重な経験を積んでいます。その後に行った規模の大きな工場では、蒸留や製造の工程などを見ることは難しく、「極東から来た」男には、警戒心も抱いていたことでしょう。

 記事では、日本酒の造り方、特に麹(こうじ)の使い方を教える代わりに、ウイスキーの微妙な味や香りの出し方を教わる「技術交換」の話が書かれています。

 マッサンは、日本から種麹を取り寄せ、麦芽でなく米の糖化作用による酒造法をイネス博士に披露したそうです。化学専攻で専門的な話もできるマッサンをイネス博士は気に入り、ヘーゼルバーン蒸留所で本格的に長期間の研修をすることになります。

ニッカの蒸留所で造られたジャパニーズ・ウイスキー拡大ニッカの蒸留所で造られたジャパニーズ・ウイスキー
 スコッチ・ウイスキーは、単式蒸留器(ポットスチル)で造る重く荒いモルトウイスキーと連続蒸留機で造る軽く穏やかなグレーンウイスキーに分けられます。ヘーゼルバーン蒸留所ではモルトとグレーンの両ウイスキーを製造していました。モルトウイスキーとグレーンウイスキーを調合させる「ブレンディング」で造るのがブレンデッドウイスキーです。そのウイスキーを人間の味覚と嗅覚(きゅうかく)で組み合わせるのが、ブレンダーです。

 マッサンは、イネス博士のもとで学問的指導や蒸留・製造技術を着実に習得していきますが、幸運なことにブレンダーとしても訓練を受けることになります。ブレンディングの方法を習得し、日本に帰ってから造ったウイスキーにブレンディングの技術がいかされていったのです。

 1920(大正9)年に帰国したマッサンは、寿屋(現サントリーホールディングス)に入社し、山崎蒸溜所(大阪府島本町)の建設に尽力します。1934(昭和9)年に寿屋を退社して独立し、北海道余市町に大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)を設立してモルトウイスキーを、後に仙台・宮城峡蒸溜所でグレーンウイスキーを製造、ブレンダーとして本格的なウイスキー造りを始めました。

 マッサンは、なぜ、余市でウイスキー造りを始めたのか。朝日新聞に掲載された別の記事で「余市は気候、風土などウイスキー造りに必要な条件が、本場スコットランドに似ている。乾燥した空気、オゾンの多い海岸で、川があり、ウイスキーの香りとなるピート(泥炭)が近くの石狩地方でとれる。(中略)私は品質第一主義で、もうかるより味をほめてもらう方がうれしい」(「私の体験 もうけより味に重点」1964〈昭和39〉年3月29日付東京本社版夕刊7面)と語っています。

竹鶴政孝さんの「私の体験」=1964〈昭和39〉年3月29日東京本社版夕刊7面拡大竹鶴政孝さんの「私の体験」=1964〈昭和39〉年3月29日東京本社版夕刊7面

ニッカウヰスキー北海道工場・余市蒸溜所=2014年1月16日、北海道余市町拡大ニッカウヰスキー北海道工場・余市蒸溜所=2014年1月16日、北海道余市町
 ウイスキー好きの筆者は、北海道に勤務していた頃も含めて3度、蒸溜所限定の原酒を求めて余市蒸溜所(ニッカウヰスキー北海道工場)を訪ねたことがあります。蒸溜所はJR余市駅のすぐそばにあり、立派な石造りの正門から中に入ると、約13万平方メートルの敷地には、乾燥塔やポットスチルのある蒸溜棟、貯蔵庫、竹鶴夫人の名前が付けられたリタハウス(旧研究室)、町内から移築された旧竹鶴邸などがあります。

蒸溜所にあるポットスチルと石炭炉=2014年1月16日、北海道余市町拡大蒸溜所にあるポットスチルと石炭炉=2014年1月16日、北海道余市町
 筆者は、学生時代にスコットランドの蒸留所をいくつか見学したことがありますが、この余市蒸溜所はスコットランドの蒸留所に似ているように思います。熟成原酒の試飲(有料)もでき25年原酒は口に含むと力強く個性的です。蒸溜所は自由に見学できるのですが、人気が出過ぎたためか、今年の初めからガイド付き見学はインターネットなどで事前予約が必要になったようです。

 現在、世界的にも評価の高いジャパニーズ・ウイスキーですが、本格的なウイスキー造りを導入し、日本に根付かせたマッサンの存在なしには、考えられません。

 さて、マッサン夫妻をモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説も、余市でのウイスキー造りの場面に入っています。ますます目が離せません。


【現代風の記事にすると…】

とっておきの話 ウイスキーとリタ 竹鶴政孝

 そのとき私は、私が生れた郷里のつくり酒屋のことを思い浮かべた。俺の家だって銘酒「春心」を造った300年ののれんのある家だ……。それから私は、日本の酒のうまさを会う人ごとに吹聴した。やがてそれがキャンベルタウンの工場の技師長でもあり、スコットランドの醸造学の第一人者でもあるピーター・イネス博士の耳に入り、思いがけなく博士からの申し入れを受けた。日本の酒の造り方、特に麹(こうじ)の使い方を教えてくれ、その代わりスコッチウイスキーの微妙な味や香りの出し方を教えてあげよう、というのである。この日本と英国の“技術交換”でやっと私は、年代の違った原酒を混ぜて味や香りを変える「ブレンディング」の方法を習得したわけだ。

 同じ大麦を発酵させたものにもその大麦の育った風土や気候で、また10年もの、15年もの、18年ものといった貯蔵期間でそれぞれ違った風味があり、さらにこれらを混ぜ合せるとなるといろいろな風味が出てくる。帰国後11年間造った寿屋のサントリーウイスキーも、そのあと北海道に新天地を求めて1934(昭和9)年から始めたニッカウヰスキーも、このブレンディングの技術によっている。

 このような大先輩とのおくせぬ“技術交換”にしても、当時では破天荒だった国際結婚にしても、やはり、20歳代の若さがこれを実現させ、そして今でも私の生活の大きな支えとなっているものだが、同じ若さでやってのけた渡航途中のちょっとした思い出もある。

 出発したのは1918(大正7)年で第1次世界大戦中だったため、アメリカ回りで行かなければならなかったが、途中ニューヨークで1カ月も足止めを食ってしまった。米軍が続々欧州へ出兵している折なので、船がないのかとも思ったが、それにしてもずいぶん待たせるものだとやきもきしていたところ、仮泊していた学生ホテルのアメリカ青年が「ウィルソン大統領に直訴してみろ」と勧めてくれた。

 当時の私にしてみれば天皇陛下に手紙を出すようなもので、初めは二の足を踏んでいたが勇気をふるって、大統領あてに電報を打ったのだ。ところが驚いたことには2日後に政府のパスポート係から「直ちに出頭されたい」という手紙が届いた。飛んで行くと「まことに申し訳ないが手違いで書類が遅れた」とすぐに翌日の船を手配してくれた。

 デモクラシーの国を見直した初めての経験だったが、割り込ませてくれた船が兵隊の輸送船で、ドイツの潜水艦に脅かされながら大西洋を渡った。このときドカンとやられていたら、今の私も、ニッカウヰスキーも存在していないのだが……。

(ニッカウヰスキー社長)
え 清水 崑

(上田孝嗣)

当時の記事について

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

  • 漢字の旧字体は新字体に
  • 句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
  • 当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください