2015年は、家康400回忌

 現在、地元の地方銀行の会報にコラムを連載させて頂いている。私が住む群馬県や、栃木県など北関東各地の歴史を調べて書いている。その土地ならではの数限りないドラマがあることに、いつも感動している。人の営みのあるところ、必ず「歴史」がある。歴史とは、ドラマそのものなのだ。

 自分の住む土地のことについては、意外に知らない人が多いのではないか。学ぶ機会に恵まれないこともあろうが、知らないというのはあまりにもったいない。隠れた感動のドラマが必ずあるはずだ。知れば身近に感じるし、愛着も湧く。かけがえのない存在になり、大切にしようという気持ちも芽生えるだろう。それは郷土愛にも通じる。

 今年は、徳川家康の400回忌。ゆかりの地では、イベントが盛りだくさん。徳川家康の眠る世界遺産・日光東照宮も、注目されていることだろう。日光に東照宮の前身の東照社が創建されたのは、家康が死去した翌年の1617年。朝廷は、それを機会に勅使を派遣するようになった。慣例となるのは、東照社が宮号を宣下され、東照宮となった後の1647年から。勅使は、幣帛(へいはく=神事における神への捧げもので布や武具、神酒など)を、奉納した。また東照宮への毎年恒例の奉幣(幣帛を奉納すること)という意味から、勅使は、「日光例幣使」となった。この日光例幣使は、意外な言葉と関係が深い。人をおどかして、無理やりに金品を出させることを「ゆする」というが、実はその語源とされているのである。

幕末まで、一度も途切れなかった「例幣使」

 例幣使には参議(律令制のもとで設けられた朝廷の官職。大臣や納言の次とされる)格の公卿(くぎょう)が任ぜられた。日光の春の大祭への勅使の派遣は、大政奉還のあった1867年まで、221年間、一度も途切れることなく続いた。一行は、4月1日(旧暦)に京の都を発ち、中山道を行く。上州倉賀野(群馬県高崎市)からは、「例幣使道」に入る。例幣使道とは、例幣使が通る街道のことで、群馬県内では現在の県道142号(旧国道354号)に重なる。例幣使道の最初の宿場、玉村宿に着くのは、4月11日であった。日光には4月15日に到着し、家康の命日の前日16日に東照宮に参拝し、奉幣した。

 家康の眠る日光は、徳川の聖地。財政難の朝廷にとっては大きな負担だったが、東照宮への奉幣は、重要な行事であった。「臣下」への参拝は屈辱ではあったが、幕府との安定した関係を築くためには欠かせない。幕府にとっても、東照宮の権威を天下に知らしめることが出来る。