(11月16日付朝刊に掲載した「ことばの広場」を再録しました)

 前回、言葉の正誤をめぐる人々の判断には、それぞれの言語感覚がかなり反映していることを取り上げました。

 しかし、そもそも言葉は、互いに考えや思いを伝え合うためのものです。広く一般に通じるか、相手に不快感を与えないか、などの視点が大事です。

 ここ数十年、批判の対象になってきた「ら抜き言葉」を例に考えてみます。

 「ら抜き」の前兆となる現象は、実は江戸中後期に生じています。可能を表す「読まれる」「書かれる」などが、可能動詞の「読める」「書ける」に変化しました。これに続いて「起きれる」「食べれる」などの「ら抜き」が出現したのです。
 
 現在、「読める」に違和感を抱く人はいないかもしれませんが、「起きれる」に抵抗のある人はまだ多いでしょう。