グーグル傘下の企業が開発した人工知能「アルファ碁」が世界トップレベルの棋士との対局で4勝1敗と強さを見せつけたニュースは、まだ記憶に新しいところです。
 人工知能と対戦したのは、韓国棋院の イ・セドル九段(33)。19歳の若さで世界囲碁選手権富士通杯を制して以来数々の栄冠を手にしてきた、最強クラスの囲碁棋士です。
 ……しかし囲碁そのものの話題は担当の記者たちに任せるとして、ここでは気になるあの字の話を。そう、イ・セドルさんの名前の漢字です。

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 上の記事のように、紙の新聞では漢字で「李世乭」と書いています。

 この「石の下に乙」という字、囲碁愛好家ならば李世乭さんの名前で見慣れていると思いますが、「今回のニュースで初めて見た」という方も大勢いらっしゃるでしょう。
 しかし、どういう漢字なのかと思って調べてみても、日本の多くの漢和辞典にはこの字が出ていません。親字数5万をうたう大漢和辞典にも載っていないのです。
 無理もありません。この「乭」という字は朝鮮の「国字」、つまり中国伝来の漢字にならって作られた朝鮮製の漢字なのですから。日本では「峠」「辻」「畑」「榊」などが代表的な国字、つまり日本製の漢字として知られていますが、朝鮮半島にも似たようなものがあるわけです。

 手元にある韓国の漢字字典を見ると、この字は「돌」(トル)と読み、石の意味をもつ名称用文字であることが記されています。「トル」とは朝鮮の固有語(日本の大和言葉にあたる)で石のこと。「石」という字に「乙」(朝鮮漢字音はウル)を付けて、「トル」の音を表すように作った文字である、と説明されています。
 この「돌」(トル)は、語中で母音などの後ろにつくと「ドル」と濁って発音されます。「世乭」という名前の場合も、「세돌=セドル」と濁音になります。

 この字を含む人名としては、20世紀初めの反日義兵闘争の指導者「申乭石」(シン・ドルソク)などが挙げられますが、日本の新聞に登場する機会はあまりなさそうです。とはいえ、現在、韓国の人名用漢字(子どもの名付けに使える漢字)にも含まれており、今後も別の人名で出てくる可能性があります。

■JIS第3・第4、補助漢字にも無し

 この「乭」は、日本の情報機器で広く使われてきたJIS第1・第2水準には入っていません。ネット上のニュースなどでは「李世ドル」とカナ交じりの表記が一般的です。
 第1・第2水準のみならず、JIS第3・第4水準(制定は2000年)にも、JIS補助漢字(1990年)にもこの字は採録されていません。そのため、主要OSに標準搭載される日本語フォント(WindowsにおけるMS明朝・MSゴシックなど)には、ふつうこの文字のイメージが含まれていません。

比留間 直和(ひるま・なおかず)

1969年生まれ。学生時代は中国文学を専攻。1993年に校閲記者として入社し、主に用字用語を担当。自社の表外漢字字体変更(2007年1月)にあたったほか、社外ではJIS漢字の策定・改正にも関わる。現在、朝日新聞メディアプロダクション用語担当デスク。