【解説】

 立春が過ぎ、春本番が近づいています。春といえば花見。シートを広げて満開の花の下でごちそうを食べて飲んで……。そんな季節も間もなくです。

 ところでみなさん花見といえば何を思い浮かべますか。やっぱり桜ですか。でもその昔、奈良時代では花といえば梅を指していたそうです。万葉集には梅を詠んだ歌が桜の約3倍あるそうです。

 梅が各地で見ごろを迎えています。今回は梅について解説した1935(昭和10)年の記事を取り上げました。

 まず現代の校閲記者の視点で点検しながら読んでみましょう。

 梅について専門家に話してもらう、という記事ですが、その専門家は「植物園の松崎直枝氏」と前文にあります。どこの植物園なのでしょう。記事が載った35年には、植物園がほとんどなく、言わなくてもわかったのかもしれませんね。でも今なら当然必要。調べてみると日本最古の植物園、東京大学大学院理学系研究科付属植物園(当時は東京帝国大学理学部付属植物園。通称・小石川植物園)の人だということがわかりました。「小石川植物園」などとしてはどうかと提案してみます。また肩書や専門分野もあれば、よりいいですね。

 前文には「梅の花」とありますが、松崎さんの話になって2段落目、当時の中国が「梅を国華に制定した、」などとしています。今なら「国花」と「花」にそろえるところです。また記事には句点「。」も使われていますが、「制定した、」のように今なら「。」にするところが読点「、」になっていたり、文末に「。」がないところもあったりとバラバラです。一つの記事の中ではそろえましょう。

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同じ日の紙面でも、ニュース面の記事には「。」がない=1935年2月25日付東京朝日朝刊13面

 この日の紙面を見ると、動きの激しいニュース面の記事では「。」は使われていません。実は、句読点の使い方が朝日新聞の紙面で現在のように統一されたのは戦後のこと。当時はまだ過渡期だったのです(詳しくは「、。 新聞と句読点」で紹介しています)。

 「梅を日本に植つけた功績者」として挙げられている「菅公」は学問の神様で知られる菅原道真(845~903)のこと。初めて出てくるときはフルネームで書いたほうがわかりやすいですね。

 道真の京都の邸宅は「紅梅殿」「白梅殿」と呼ばれ、大事に梅を植えていたと伝えられています。梅を詠んだ歌も多く、九州の大宰府に左遷させられることになった時に邸内の梅に詠んだ「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」は有名ですね。また道真を追って一夜で飛んできたと伝えられる飛び梅伝説をご存じの方もいらっしゃるでしょう。太宰府天満宮をはじめ、道真をまつる神社は今も梅の名所ばかり。日本で梅がここまで広く親しまれるようになったのには、道真の影響が大きかったのかもしれません。

 梅を「実用的に使った」として挙げられている「水戸家」は水戸の徳川家、「水戸公」は水戸藩第9代藩主徳川斉昭(1800~60)のことでしょう。斉昭もまた梅を愛し、日本三名園の一つ、偕楽園を1842年に造園しました。藩内の民ととも(偕)に楽しむ場にしたいと庶民にも開放したそうです。

 記事には「好文亭の周囲に実梅を植ゑた」とありますが、好文亭は偕楽園の中にあります。偕楽園には今も約3千本の梅がありますが、この梅は観賞用と同時に、「非常時に備えたもの」だったそうです。つまり、戦時などに持ち歩いたりおにぎりに入れたりする梅干しを調達する目的があったのですね。

 今回取りあげた記事の隣にはこんな記事が載っています。

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1935年2月25日付東京朝日朝刊7面

 当時の梅の名所と見ごろ、観梅列車の運行などを知らせる記事です。鉄道会社も運賃を割り引いて関東地方では水戸や青梅(東京)、大倉山公園(横浜)などに特別列車を走らせていたようで、梅は今よりも人気があったのかもしれません。

 調べてみると1893(明治26)年に「看梅の往復割引切符」という記事が載っていました=下の画像の左上。このころにはすでに水戸への観梅客向けの割引切符が販売されていたようです。

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

・漢字の旧字体は新字体に
・句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
・当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください