【当時の記事全文】

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1898(明治31)年11月14日付 東京朝日新聞 朝刊3面

●桜田要撃談 蛙堂

万延元年三月三日花の如きの雪八百八街を埋めたる朝 水戸の浪士十七人 時の大老伊井直弼を桜田門外に要撃して之を斬る 海後嵯峨之介氏は其一人也 氏当時身を脱して四方に潜匿し今や老を養ひて水戸に在り 就て当日の事を質すに異聞多し 乃ち之を左に掲ぐ

万延元年二月二十一日 余(海後氏)野村(彝之介鼎実)を訪ひ昨夜高橋(多一郎愛諸)も出立せし由なれば某等も亦是より南上すべしと告げたるに野村は出府に就ては種々話合せ置くべき手順もあればとて先づ盃を挙げ一酌を催ほし始めたり 時に会ま訪問の客ありて談話を妨げられしが客散じて復飲み且談ずる 折しも又々来客あり 来客は梶清左衛門 山口徳之進の二人にて二人は下野隼次郎の許より斬奸主意書の草稿を持参せしなり 野村之を展閲して彼是加筆せし様子なり 少焉ありて山口は短銃を貰ひ帰り梶は尚留て共に酒杯を傾け居たるが軈て野村は梶を顧て扨海後も是より出発せんとの事なれども此結髪にては困ると云ふ 梶はさればとて余の頭髪を大糸鬢に改め又服装を変じ奥州人の体に扮せしめたり 這は途中の嫌疑を避るが為なり 野村は丁寧に諸事を指揮し且つ割判を渡して曰く江戸に入らば馬喰町三丁目井筒屋嘉七方に至るべし 同所には下総国香取郡津宮村窪木新太郎と杉野弁介(杉山弥一郎変名)初原誠介(増子金八変名)の三人同宿せるが故に此割判を出して同宿を求むべし 又浅草観音には毎夕杉野初原の内一人出居り同志の着到を待つ筈なれば先づ浅草に至るも可なり 観音に至らば相図の為め百度参りを為すべし 彼待受の者は桜花の印付たる手提灯を持居る約束なれば桜の手提灯を持ち居る者が正と声を掛れば堂と答ふべし 是合詞なりと(正々堂々の意) 其他いろいろの密話あり 又杉野初原への伝言もあり 是に於て余は野村を辞して直に出発し同廿五日江戸馬喰町井筒屋に至りしに三人とも在宿にて割判も出すに及ばず面会するを得たり

出府の後二日間は井筒屋に宿せしが三日目に杉山弥一の添書を以て千住の或旅店に行き四五日の宿泊を請ひしに仔細ありとて断わらる 時に浅草俵町に我郷里近き助川村永山万之助の実父万次郎と云者の商売を兼八州手先を勤むる者あるを思出し同人に遇て一宿を頼みたるに当時水戸浪人の探索厳しく所々に番所あり 昨夜も水戸浪人らしき者四人の跡を付けたるに品川を越し行たり 此れは此地に用なく上方へ行くならんと同役の咄なり 貴君の今日迄無事なるは幸なり 一日も早く帰り玉へと所詮引受く気色なし 依て此世の思ひ出なり 品川妓楼に居続けすべしときめ直に同処に赴きたり 既にして二十八日となりたれば最早同志も出府せしなるべく要撃の期も遠からじと思ひ神田裏旅籠町岡田屋キン(金子孫二郎教孝の匿名)方へ木村を尋ねたり 木村の変名は四ツ目屋なれば四ツ目屋サンはと問ひたれば御在宿なりと云ふ 通れば座に四五人あり 斎藤畑弥平(畑弥平筑山と号す 後筑波の一挙に与し越前に斬らる)抔も居たり 一挙の期を問ひたるに未だ決定せざれども多分来月三日を出でずと答ふ

要撃はいよいよ三月三日と決し其二日余は関(鉄之介遠)を大音寺前の内田屋に訪ふ 此家は往来より十間余も引込み潜匿には屈強の所と見受けたり 家の主人曰く三好殿(関の匿名)は少く嫌疑ありて吉原大門前の平松に転居せりと 因て平松を尋ねしに岡部三十郎此に居れり 岡部曰ふ今日は昼後より品川の稲葉屋へ集会の筈なり 大勢打揃て行くは宜しからず 二人三人位づつ行くべしと 因て余は是より又品川へ赴きたり (未完)

(1898〈明治31〉年11月14日付 東京朝日新聞 朝刊3面)

写真・図版

1898(明治31)年11月16日付 東京朝日新聞 朝刊3面

●桜田要撃談(承前) 蛙堂


三日未明諸士悉く稲葉屋に立返りて飲む 関鉄之介各自の懐中書幷びに所持金を調べ金子は皆同額に分配し各々支度を整ふ 時に佐野竹之介は白襦袢に朱にて歌を書きたるを示し且曰く掃部頭の首級は有村氏と余とに取らせよと 衆之を諾す 軈て飯を終りて立ち出でんとする 折しも飛雪紛々として来りぬ 関鉄之介喜色満面天を仰で独語して曰く天我が忠義を憐みて此雪を降らす 志を達せんや必せりと 衆継で戸外に出で皆天吉兆を示すと称す

かくて各々傘を求め三々五々前後に出立す 余は山口辰之介と同道し途にて草鞋を買ひ下駄を棄てて愛宕山に登る 余等より先きに登りし者は大関和七郎 有村次左衛門 増子金八郎 杉山弥一郎 広木松之介の五人なり 明き茶屋に腰打掛けて談話せる内同盟の士追々到る 佐野竹之介静かに有村次左衛門に向ひ海後は我友なりとて紹介す 因て余は始て有村に逢ふ 暫時あって惣勢打揃ひければ各組合に分れ思ひ思ひに目的の地に赴きたり 凡そ此時の掛引は予て定め置ける所にて総指揮者は関鉄之介 見届役は岡部三十郎(岡部は見届役ゆゑ人数を離れ居り且つ刀をも帯びず脇差一本を帯ぶるのみにして斎藤監物は斬奸主意書を其筋へ捧げ一統の主意を申明すべき手筈なれば切入の組合には入らざりき 組合は大抵五人づつにて他の組合は忘れたれども余の組合は佐野、大関、広岡、森及び余の五人なりき 程なく愛宕山を下りて桜田に着しぬ 時に彼未だ登城せし容子なし 依て余の組合は佐野竹之介を始め堀の方に徘徊せしに雪は次第に降り来り寒気一層太だし 余は予て用意せし勝利散を取出して佐野と共に之を服し又大関より人参を貰ひ用ひたり 関は登城の大名を見物する体をなし武鑑を手にし同じく堀の方に来れり

既にして一隊の人影あり飛雪紛々の裡に見ゆ 衆曰く来れり来れり 関は向側に行き佐野は堀の側に進み早や羽織の紐を解んとす 大関は尚ほ早しとて止むる間もなく供の先方に切り掛りし者あり 継で一同切掛りしかば彼の供方はドット崩れ立ち駕籠側は頓に透きたり 是時稲田重蔵(同人と覚ゆ)半合羽着たる儘進で駕籠を貫き是と同時に有村、広岡馳来て之を刺し同時に駕籠の戸を明け井伊の首級を挙げ有村は首級を刀の尖に貫き大音に呼れり 一同鬨の声を揚る約あればなり 是時佐野竹之介は掃部頭の従者数名を相手に其処此処に闘ひ半合羽着たる者も闘ひ居たり こは蓋し稲田なりしならん 関は此時まで傘を持て前後の進退掛引を司り居りあっぱれ指揮者と見受けたり 又斎藤は組合には入らず首尾を見届け書を閣老に捧ぐる役なりしが現場に臨み堪へ兼たるや其場に切入りたり 森、杉山、大関、森山は斎藤と共に閣老に自訴せんとて連立ち大関は咽喉の辺に創を受けしが軽傷にて最早血も留りしとて擦りながら行けり 道不案内なれば傍を通りかかりし小者体の男を見て脇阪の家敷へ案内せよと命じたるに戦栗して知らずと云ふ 杉山一喝して之を威し案内させたり 山口辰之介は左の肩に深手を負ひ歩行ならずとて余に介錯を頼みしが余は後より関も来ればとて分れたり 尚少し行きしに跡より声を掛る者あり 顧れば有村、広岡は彼の首級を刀尖に貫きしまま担い来れり 夫より二人は日比谷の見付を通行せしに棒を持たる者三人許り見えたれども敢て追来らず 広岡は詩歌など吟じつつ行きしが辰の口に至りし頃二人は深手にて歩行すること克はずなりぬ 時に余は役屋敷を出んとせしに皆堅く門を閉ぢ辻には棒突番人出で通行する事能はざりしを以て再び辰の口に行き見れば彼の二人は既に絶命し群衆取り囲み近寄る事叶はざりき

初め事の起りし時は何となく心急き正堂の掛声にて敵と味方とは弁じ得たるも目先ほの暗く恰も夜の引明け位の心地し少し斬合ひし後は夜の明けたるが如くなりき 稲田が駕籠脇のすきに乗じ驀地に馳せ往て駕籠を突し時 余も後れじと同じく馳せ付け一刀突入れしが手答なし 扨はと取直し再び前方を突きたる時は慥に手答ありき 折しも向側にて駕籠の戸を開き有村が首級を刀に貫きて呼はりし時は真に白昼の如く覚えたり (完)

(1898〈明治31〉年11月16日付 東京朝日新聞 朝刊3面)

原文どおりに表記することを原則としますが、読みやすさの観点から

・漢字の旧字体は新字体に
・句点(。)を補った方がよいと思われる部分には1字分のスペース
・当時大文字の「ゃ」「ゅ」「っ」等の拗音(ようおん)、促音は小文字に

等の手を加えています。ご了承ください

広瀬 集(ひろせ・しゅう)

熊本県出身。就職氷河期世代。非正規の職を転々とした後、2006年にようやく入社。3年半の大阪本社勤務を経て、13年東京本社に復帰。ことばマガジン「昔の新聞点検隊」の言い出しっぺ。関心のある歴史ものやスポーツものを、同コーナーを中心に執筆中。