政府は1日午前、三権の長や皇族らでつくる「皇室会議」を宮内庁で開き、天皇陛下の退位日について意見を聴いた。安倍晋三首相は、会議の意見を踏まえ、退位日を2019年4月30日とする決定をしたと表明した。皇太子さまの即位を翌5月1日とし、新元号…[続きを読む]
「『平成』に決まりました。これから閣議にかけます」。1989年1月7日午後2時ごろ。石原信雄・官房副長官は藤森昭一・宮内庁長官(故人)に電話した。この日に即位した天皇陛下に、新たな元号をいち早く伝え…[続きを読む]
1989年1月7日午後2時ごろ、首相官邸の記者クラブ。毎日新聞政治部の男性記者が、仮野(かの)忠男・官邸キャップに1枚のメモを手渡した。政府関係者から極秘入手したそれには、手書きで「平成」とあった。…[続きを読む]
「発表等の手順については、平成の元号を定めた手順を踏まえていきたい」。安倍晋三首相は今年1月、欧州外遊中に記者団から新元号について問われ、そんな見解を示した。「新しい元号は広く国民に受け入れられ、日…[続きを読む]
「ポスト平成」の新たな元号に向けた準備は、1989年1月8日に改元されて間もなく始まっていた。作業に携わった元政府関係者の証言をたどると、二つのリストの存在が浮かびあがってきた。 新たな元号案が3案…[続きを読む]
1枚の珍しい写真が残されている。民家のソファに腰掛けているのは、皇太子時代の天皇陛下だ。かたわらには皇后さま、長女・紀宮さま(黒田清子さん)。陛下はテーブルに並んだゼンマイやレタスなどに「おいしいで…[続きを読む]
愛子さまが天皇、皇后両陛下と会う機会をもっとつくっていただきたい――。宮内庁トップの羽毛田信吾長官(当時)が、皇太子さまにそんな趣旨の発言をしたのは、2008年2月の定例会見の席上だった。 発端は、…[続きを読む]
傘寿を迎えた天皇、皇后両陛下が、子どもの絵の展示の前で足を止めた。 2014年10月。東京都内で開かれた両陛下の傘寿記念展。オレンジ色の乗り物の絵は皇太子さま。怪獣の絵は秋篠宮さま。色とりどりの草花…[続きを読む]
天皇陛下が2019年4月30日に退位することが固まった。退位をめぐり、官邸に置かれた有識者会議で座長代理を務め、官邸と宮内庁のせめぎ合いを内側から見つめてきた政治学者の御厨貴さんに聞いた。 天皇の退位問題を巡り、官邸に設置された有識者会議…[続きを読む]
それは共産党の変化を印象づける場面だった。昨年末の参院本会議。大門実紀史(みきし)参院議員が「明治天皇も雲の上で怒っておられます。『共産党頑張れ』と言っているのではないか」と訴えた。カジノ解禁法の反…[続きを読む]
北方領土の「面積2等分案」には賛成できない――。かつて内閣の幹部を経験した政治家は、天皇陛下から、そんな思いを聞いたことがあるという。 面積2等分案は、近年では第1次安倍内閣時代の2006年、外相だ…[続きを読む]
「私が電話しました」。そう明かすのは鳩山由紀夫元首相だ。民主党政権時代の鳩山内閣は2009年12月、天皇と外国要人の会見は1カ月前までに日程調整するという慣習を破り、天皇陛下と来日した習近平(シーチ…[続きを読む]
(1面から続く) 1992年、天皇陛下の訪中をめざした宮沢喜一内閣が直面したのは、国内の激しい反対論だった。首相官邸幹部らが異例の「保守強硬派対策」に乗り出し、半年余りかけて訪中決定にこぎ着けた。「…[続きを読む]
「中国訪問はよかった」 皇居・御所で開かれた数年前の食事会の席上。天皇陛下は1992年の中国訪問を振り返り、宮内庁関係者にそう明かした。 天皇陛下が皇后さまと中国を訪れた92年は、日本と中国が国交正…[続きを読む]
6月23日。天皇、皇后両陛下は皇居・御所で沖縄の方を向いて黙祷(もくとう)を捧げ、サーターアンダギーなどの沖縄料理を食べた。島民を巻き込んだ国内最大の地上戦の犠牲者を悼む「沖縄慰霊の日」に、両陛下が…[続きを読む]
《「長崎は中継ないんですね」》。天皇陛下はしばしば、あまり注目されない物事に目をかける。 皇太子時代の1981年8月。陛下は会見で、広島の原爆投下の日や終戦の日に全国で式典のテレビ中継があるのに、長…[続きを読む]
「遅すぎます」。2015年4月9日。日本から約3千キロ離れた南太平洋のパラオ・ペリリュー島で、元日本兵の倉田洋二さん(90)は声を振り絞った。目の前で、天皇、皇后両陛下が慰霊碑にこうべを垂れるのを見…[続きを読む]
(1面から続く) 栃木・奥日光に広がる湿原、戦場ケ原。おなかをすかせた小学生の一団が、夢中で木の実や野草を摘んでいた。その中に、当時11歳だった皇太子時代の天皇陛下もいた。 戦時中、陛下は各地を転々…[続きを読む]
「ついに現実になってしまった」。16日、秋篠宮(あきしののみや)家の長女眞子(まこ)さま(25)の婚約準備が明らかになると、民主党の野田政権で「女性宮家」創設の検討に携わった関係者はそう漏らした。こ…[続きを読む]
現天皇陛下の代替わりは、天皇の逝去に伴わないものとしては約200年ぶりになる。天皇を「統治権の総攬(そうらん)者」とした大日本帝国憲法の時代にはなく、「国民統合の象徴」とした日本国憲法下ではもちろん…[続きを読む]
政府が近く閣議決定する特例法案が国会で成立し、天皇陛下の退位が実現すれば、1989年1月8日に始まった「平成」は幕を閉じる。次の元号は何になるのか。まず、かつて元号選定に関わった関係者の証言や公表資…[続きを読む]
(1面から続く) あまり知られていないが、天皇、皇后両陛下はプライベートでも活動的だ。 両陛下は週末を中心に都内の友人宅を訪れ、皇后さまが単独で向かうこともある。それぞれお一人での外出もあり、陛下は…[続きを読む]
晴天に恵まれた連休さなかの5月4日。天皇、皇后両陛下は東京・麻布の東京ローンテニスクラブを訪れた。公表されていない、プライベートな外出だ。 天皇陛下は83歳、皇后さまは82歳。結婚前、このコートでた…[続きを読む]
「女性宮家、決着つけなければ」野田佳彦氏に聞く(2017/7/29)
批判浴びた習氏会見「国益考えた結果」 鳩山氏に聞く(2017/7/28)
「原発事故、陛下に知りうる限り伝えた」菅直人氏に聞く(2017/7/27)
新憲法下「国民主権」で即位の礼 海部俊樹氏に聞く(2017/7/26)
「直系であれば、女性天皇でも」 福田康夫元首相に聞く(2017/7/25)
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。 終戦以来既に七十二年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ち…[続きを読む]
被災者と話し込むうちに中腰になり、やがてしゃがみ込み、最後には板張りの床にひざをついた。 1991年7月、天皇、皇后両陛下は雲仙・普賢岳噴火の被災者を見舞うため、長崎県島原市の体育館など計7カ所の避…[続きを読む]
1989年1月7日。昭和天皇が逝去し、明仁皇太子が新天皇となった。当時55歳。即位の時から象徴となった初の天皇の誕生だ。 《天皇としてできるだけ早く全国を回り、国民の生活に触れたい》 10年半にわた…[続きを読む]
非常食の箱詰め作業をする障害者に歩み寄り、笑みを浮かべ、声をかけた。「仕事、疲れませんか」「困ることはありませんか」。12月6日。天皇陛下は皇后さまと障害者が働く福祉工場(東京都葛飾区)を訪れた。約…[続きを読む]
ご誕生を伝える号外(1933/12/23 号外)
両陛下のご結婚(1959/4/10 夕刊)
昭和天皇の崩御と天皇陛下の即位(1989/1/7 夕刊)
即位の礼(1990/11/12 夕刊)