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抑圧の歴史越えて復興 言葉よ、よみがえれ―2

2009年6月2日15時11分

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写真かつてのリボニア人の村には現在、小さな民俗資料館を併設する公会堂が設けられ、地元の子どもたちを対象にしたリボニア語講座が開かれている。資料館に来たリボニア語を学ぶ子どもたち=ラトビア西部コルカ、国末写す

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 若者であふれるラトビア西部のベンツピルス大学の一角に、中高年の女性ばかりが集まる部屋があった。消滅の危機にひんするリボニア語を習得したい人々のために政府が毎週開いている市民講座だ。

 受講生22人の多くは、祖父母や両親がリボニア人だ。ラトビア語で育ったものの、民族アイデンティティーを再発見しようと力を注ぐ。

 バイバ・アンデルソネさん(52)はその一人。祖母がリボニア人だが、受け継いだ言語は「波」と「木」という二つの単語だけ。「自分の根源を知りたかったから」と2年前から通い、「短い会話ならできるようになりました」。

 91年の独立前後から、ラトビア政府はリボニア語を自国に欠かせない文化と位置づけ、その復興に多大な力を注いできた。毎年9万ラッツ(約1700万円)前後の予算を組み、市民講座や夏の言語習得合宿の開催、辞書や文法書の編集を進めてきた。その熱意の背景には、ソ連時代の苦い経験がある。

 40年にラトビアを併合したソ連は、リボニア人を強制移送の標的とした。また、リボニア人が住むバルト海沿岸の12の漁村はソ連からの逃亡を防ぐ厳重警備の対象となり、漁船は没収され、村への自由な出入りも禁止された。多くのリボニア人は街に出て自らの言語を失った。西側に亡命した人も多い。

 ベンツピルス大学の講座の受講生に当時を知る人がいた。12の漁村の一つルージニャ出身のアウスマ・エルネストフスカさん(71)。父の経営する理髪店はリボニア人の社交場だったという。

 第2次大戦後の45年、父はウラル山中の強制収容所に送られた。ジャガイモの皮を食べ、鹿の血を飲んで生き延び、1年後に生還したものの、体調が回復しないまま61年に亡くなった。「戻らなかった村人も多い。村は寂れ、当時36軒あった家は今2軒しかありません」

 ラトビア各地でリボニア語を学ぶ人たちの組織「リボニア協会」の会員は現在400人。近年は若者の参加も増えている。

 上り調子の復興運動だが、不安はある。昨秋以降の金融危機の直撃を受け、今年のリボニア語復興予算が例年の20分の1に削られた。政府社会統合局のリリタ・カルニヤ前調整官(56)は「財政は深刻だが、できるだけ試みを続けたい。リボニア語は我が国に欠かせない文化遺産だから」と話した。(ベンツピルス=国末憲人)

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