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薩摩焼に宿る苦悩と夢 異郷にて―4

2010年6月25日15時44分

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写真ろくろを回す15代沈壽官さん=鹿児島県日置市、山本壮一郎撮影

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 ろくろを操る陶工の両手から土がわき出し、するすると立ち上がった。炎をくぐれば、繊細かつ優雅な薩摩焼へと生まれ変わる。乳白色の地肌、精巧な透かし彫りなどの細工、金や赤の絵付けが鮮やかだ。

 薩摩焼の技術は、朝鮮から強制的に連れてこられた陶工によってもたらされた。16世紀末、時の権力者、豊臣秀吉は朝鮮に出兵した。当時隆盛していた茶の湯で朝鮮のやきものがもてはやされるなか、焼き物戦争とも呼ばれ、薩摩を支配した島津勢ら大名たちはこぞってこの地に陶工を求め、連れ帰った。

 苗代川(鹿児島県日置市美山付近)で窯を伝える沈壽官の一族も、その中にいた。陶工たちは、地元の土を使って薩摩焼を生み出していった。一方、当時の藩の政策もあり、故国の風習や信仰を保ち続けた。沈家のすぐ近く、玉山神社は朝鮮の始祖、檀君をまつってきた。

 「新しい支配者のもとでどう生きるか、必死だったのでしょう。どこに連れてこられたのかすらわからなかったのだから」。15代沈壽官さん(50)は先祖の心境を推し量る。

 父の14代(83)は、司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」でも知られる。司馬はこの小説で、異郷に息づく朝鮮人の苦難の歴史をひもとく。彼らが薩摩にたどり着いたとき、「病人は伏し、婦人は泣き、哀号の声はあたりに満ちた」。

 明治維新を迎え、陶工たちは薩摩藩の後ろ盾を失う。軍国主義の時代には、朝鮮の出自は目のかたきにされた。14代もまた、学校で殴られ、気を失い、制服は鼻血で血まみれになった、と司馬はつづる。それでも伝統の灯は守られてきた。

 15代は思う。「明治になって偏見にさらされ、村を去っていった者も多い。でも私は家名の重み、薩摩焼を守ってきた先人たちの思いを断ち切ることはできない。先祖もそうだったのではないでしょうか」

 14代は、韓国名誉総領事に就任するなど日韓両国の橋渡しの功績で、この春、旭日小綬章を受けた。秋には、パリで歴代沈壽官の展覧会が開かれる。

 薩摩焼が初めて世界の注目を浴びたのもパリだった。1867年の万国博覧会だ。そこに12代の作品も出品された。

 「12代は、自分のすべての技をパリに披露したい、という思いの道半ばで亡くなった。12代の夢が、4代かかってかなう。パリで沈壽官の旗を揚げたい」と14代は語る。

 朝鮮から薩摩、そしてパリへ。異郷に咲いた一族の夢は、今も鮮やかな軌跡を描き続ける。(編集委員・中村俊介)=「異郷にて」おわり

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