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(聞きたかったこと 広島)母の思いを外国人に

写真:「ここで多くの人と出会った」と話す山岡美知子さん=広島市中区大手町1丁目拡大「ここで多くの人と出会った」と話す山岡美知子さん=広島市中区大手町1丁目

写真:山岡さん(左)と母の上田清子さん。5年前に撮影した=本人提供拡大山岡さん(左)と母の上田清子さん。5年前に撮影した=本人提供

 【佐々木敦斗】原爆ドーム前で外国人にガイドをしている主婦、山岡美知子さん(62)=広島市南区松川町=は被爆2世。妹を失った母、上田清子さん(88)の思いを伝えている。全く話せなかった英語。ある人との出会いから猛勉強を始めたという。

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 「なぜいつも病院に行っているの?」。小学6年の時、山岡さんは母に聞いた。「原爆を受けたからだよ」。高熱など原因不明の病気に悩まされ、入院を繰り返していた母から原爆の話を聞いたのは、その時が初めてだった。

 母は宇品(現・南区)の陸軍船舶司令部で働いていた20歳の時、御幸橋の近くの下宿(同)で被爆した。けがはなかったが、一緒に暮らしていた女学生の妹、敦子さん(当時13)は雑魚場(ざこば)町(現・中区)で建物疎開の作業中だった。

 母は3日間妹を捜し続け、似島で見つけた。顔はやけどで膨れあがっていた。実家のある江田島に連れ帰ったが、1945年8月10日に息を引き取った。

 山岡さんは「ショックだった。『目の前で何人も何人も死んでいった。本当に本当に怖かった』という母の言葉が忘れられない」。父の正さんは入市被爆。多くを語らないまま、2001年に亡くなった。母は今、特別養護老人ホームで暮らしている。

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 08年4月、57歳の時に、原爆ドーム前で外国人に英語でガイドをしていた胎内被爆者の三登(みと)浩成さん(67)の話を、偶然通りかかって聞いた。

 「英語はもちろん、原爆のことも知らないことばかりだった」。興味を持って通い続けた。三登さんやほかのガイドから、原爆のことを教えられた。

 知れば知るほど、伝えたいという思いが強くなった。「外国人向けのガイドは少ない」と知り、役立ちたいと思った。とはいえ、英語はアルファベットすら書けなかった。

 最初のガイドは、その年の7月。「研修中」の札をつけ、短い英文を読みあげた。緊張で声が震えた。顔を上げることもできなかった。相手に伝わったかどうかも分からなかった。

 毎朝6時に起き、ラジオの英語講座にかじりついた。毎日1時間、原爆に関する英文を読み込んだ。基本的な文法は元高校英語教師の三登さんが教えてくれた。外国人も「この単語を使った方がいい」とアドバイスしてくれた。ガイドを始めて1年、何とか「伝わっている」と実感できるレベルにまで上達した。

 最初のガイドから5年。今は知り合った外国人と英語のメールをやりとりし、ガイド中に議論することもあるという。これまで案内したのは6千人以上。出身地は85の国と地域にのぼる。ガイドした外国人には慰霊碑の碑文の英訳を記したポストカードを配る。

 「あなたは被爆2世なんですよね。お母さんの写真も見せたらどうですか」。英国人男性の一言がきっかけで、母の体験を話すようになった。「母は恐ろしい光景を見た。黒焦げの死体、目の前で死んでいく人々……」

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 「なぜ原爆は地上約600メートルで炸裂(さくれつ)したのか」「なぜ原爆ドームは崩れずに残ったのか」……。外国人の質問は鋭く難しい。分からないことがあるたびに、自宅でインターネットを使って調べ、慣れないパソコンで資料を作った。今はファイル5冊を持ち歩く。

 山岡さんは言う。「寝たきりの母から原爆のことを聞くことはできないが『本当に怖かった』という母の思いを伝えたい」

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