ケニアに、アフリカに帰ってきた。
この地を再び踏むことになるとは思っていなかった。でも、帰ることになったとき、この場所から始めようと決めた。
ウィユミリリエ村のはずれに立つ。
南緯0度4分、赤道から10キロと離れていない。涼しい風が吹いている。
標高2252メートル、サバンナの端、ケニアの主食のメイズやイモをつくる畑が丘陵に連なっている。
10年前の4月、ここに1人の男を埋めにきた。
ジュリアス・デグワ・ガトゴ、43歳。朝日新聞ナイロビ支局の助手だった。
中東応援のため出張中のエルサレムにいて、デグワさんが強盗に撃たれて死んだと連絡を受けた。不思議な偶然だが、ナイロビのエルサレムという場所で、支局の車を止めて友人と酒を飲んでいたところを襲われたという。
ナイロビ支局はサハラ砂漠以南の49カ国(当時は48カ国)を記者1人が受け持つ。出張で月の半分以上は留守にする。だから、留守を任せられる誰かがいないと支局は回っていかない。そんな全幅の信頼を置ける人がデグワさんだった。
支局の車を私用で使うことなどふだんはありえなかったのに、あまりにすべてを任せてしまったので、留守の間に羽目を外そうとしたのだろうか。にしても、ペットボトルのキャップほどもある穴を体にうがたれなければならない悪事であるはずはない。
10年前、葬儀委員長のような立場で、デグワさんの家の敷地の墓に、彼を埋葬した。そのときは周りに家もなく、ただ丘の斜面を爽やかな風が吹き抜けるばかりだった。
今は周りにトタン屋根の小さな木の家が何軒か立った。墓は、周りに囲いをほどこされ、月日を感じさせないほど白く、きれいに保たれていた。
「私たちはあなたを愛したが、神がもっともあなたを愛した」と、一家の大黒柱のあまりに早い死を受け入れようとする言葉が刻まれている。
デグワさんの妻ステラさんと、32歳から11歳までに成長した4人の子どもが集まって迎えてくれた。トウモロコシの一種のメイズ、米、ニンジン、タマネギ、豆類をふんだんに使った料理を振る舞ってくれた。
木でできた家の壁には、すきま風を防ぐために新聞やいろんなポスターが張られていた。10年前、その中に、支局の事務所にあった外国人美女のカレンダーを見つけて、ああ、自分はデグワさんのことを何も知らなかったのだとなぜか感じた。そのポスターが、いまもそのままあった。
10年の月日はいろんなものを変えた。アフリカはめざましい発展を遂げつつある。多くの紛争に区切りがついた。ケニアのように表面化せずにすんでいた民族的対立が噴出したところもある。そして、ナイロビの治安は相変わらず世界でも最悪のレベルのままだ。
さて、心の中ではもう戻りたくないと思っていた地になぜ帰ってきたのか。なぜアフリカなのか。デグワさんの墓に参って、これから何をしようとしているのか。それを書きたいのだけど、うまく説明できそうにない。ただ、ここで書いていくことが、これまで新聞にはあまり見かけなかった、奇妙な旅の記録になればいいと思っている。
◇
■10年前に書いた、二つの記事から
デグワさんが殺された事件について、2002年に次のような記事を書きました。(1)は事件が起きた4月、(2)は翌月に載ったものです。
(1)強盗に撃たれ朝日新聞社の取材助手が死亡
【ナイロビ支局26日】ケニア警察によると、ナイロビ市東部イーストランド地区の路上で25日午後10時ごろ、朝日新聞ナイロビ支局の取材助手ジュリアス・デグワさん(43)の乗った支局の乗用車が、数人の武装強盗に襲われた。デグワさんは所持品を奪われた上、左胸を撃たれ死亡した。
(2)助手を殺した国(特派員メモ)
空港に降りると、いつも彼が待っていた。彼の運転する車の助手席で天候の話をしながら、出張から戻ったと、いつも実感した。
だが、今回は空港に、彼の姿はなかった。私の出張中、車を狙った強盗に銃撃され、死亡したのだ。
ジュリアス・デグワ、43歳。朝日新聞ナイロビ支局の助手を14年務めた。各種の支払い、運転、支局の維持管理、トラブル処理、切り抜き。記事執筆以外のおよそすべてを、担っていた。頼まれると嫌といえず、他社の雑事まで引き受けていた。
日本語がわからないのに、日本の新聞社に勤めて達成感があるのかと、疑問に思っていた。死後、彼の机から、一緒にケニアの自然保護区で取材した、ライオンとオリックスの親子についての記事の切り抜きが出てきた。
憎むべきは、金のために平気で人を殺す犯罪者であることはわかっている。でも、ナイロビの治安の悪さは今に始まったことではない。政情不安の国に囲まれ、難民とともに武器が流入するという事情はあるにせよ、その対策に手をこまぬいた結果、この都市は世界で最も危険な首都の一つになってしまった。
デグワを殺す国に、未来はない。そう思わずにいられなかった。
(ケニア=江木慎吾)
◇
■片手にGPSを持って
原稿を書いた場所が、地図の上に表示されるようになっています。また、原稿の中に、標高を記す場合もあります。
今回、アフリカに出かけるにあたって、このページを編集してくれる人たちから、「GPSロガー」という装置を持って行くように言われました。登山や自転車をする人たちが使うらしいのですが、持っているのは腕時計ほどの大きさで、地球上の緯度、経度や移動距離、標高などが表示されます。
きょうの旅は往復450.6キロ。ナイロビの標高約1700メートルからいったん1100メートルほどに下り、その後また上って2200メートルを超えました。
上り下りの激しさに合わせ、周りの植生も激しく変わります。密林のような地帯あり、サボテンが目立つ地があり、アカシアの木が大平原に点々と見えるところもありました。
もし、晴れていればアフリカ大陸第2位の5000メートル峰ケニア山が望めるはずですが、雨期に入っていて驟雨(しゅうう)をくぐることになったきょうは、すそ野を望むばかりでした。ひと山越えると天気が変わり、そのすそ野に虹がかかっていました。

61年生まれ。社会部をへて00年代、ナイロビ、ニューヨーク支局に勤務。バルカン半島、中東、アフリカ各地の紛争取材を経験しつつ、小心さは変わらない。動作が緩慢でのんきに見えるが、気は短い。趣味は散歩。しばしば二日酔い。だめトラファン。