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09月22日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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墓穴からの眺め 踏み出した和解への道 @アビジャン

写真:12年前、墓穴から撮った=写真はいずれも江木慎吾撮影拡大12年前、墓穴から撮った=写真はいずれも江木慎吾撮影

写真:アーメド・トーレさん拡大アーメド・トーレさん

写真:12年前の墓穴はいま拡大12年前の墓穴はいま

 記者として立ち会い、いまここにいることは忘れまいと思う瞬間はいくつもある。順位をつけられるものではないが、たとえば紛争がらみでは次のようなものが浮かぶ。

 1995年、戦時下のボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにたどり着いた。砲弾によって半分崩れたホリデーインに泊まった。地下シェルターがレストランになっていた。

 夜、1人食事をした。客などほとんどいないシェルターに、映画「カサブランカ」で有名な「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」のピアノ演奏が流れた。砲弾が降る外の世界が遠くへ去ってゆくように感じ、その音が醸し出す静かな安らぎに鳥肌がたった。

 エリトリアの空港での出来事も、忘れられないことの一つだ。でも、話が長くなるので、サラエボの記事の一部と、エリトリアの空港の記事を付記しておく。

 そしてここ、アビジャンにも12年前の忘れられない光景がある。背景は、また当時の記事を付記する。古代の墳墓はいざ知らず、今から埋葬が行われようとしている墓穴に入る経験はなかなかできない。というか、したくもない。

 その墓穴を、怒りに満ちた群衆が取り囲んでいた。このまま遺体とともに埋められてしまう怖さを感じた。雨が降ってきた。そして、墓穴を取り囲んでいた人々が一斉に腕を突き上げた。その時に撮ったのがこの最初の写真だ。

 この国に垂れ込める暗雲を象徴するような光景だった。そして、その通りにコートジボワールはこの後、深刻な分裂状態に陥った。2010年の大統領選を機に噴出した暴力によって3千人以上が死亡したとされる。

 いま、国は和解の過程にある。噴出した対立が伏流に戻ったのでは、またいつ噴出しないとも限らない。大虐殺を経験したルワンダは、人の民族的な背景を問うことすら禁止した。和解が簡単ではないことは、過去の例が物語っている。

 どのように進められるのか。南アフリカやルワンダなどにならって「対話と真実と和解委員会」がつくられ、昨年から活動している。委員会にはサッカーのドログバ選手らも含まれている。

 コミュニケーション担当アーメド・トーレさん(66)に尋ねた。

 「和解というのは心の問題で、難しい。言葉ではなく心で、和解というものをみんなが理解しないといけないのですから」

 委員会はまず、アフリカの伝統的な方法、地域の長老を通して国の血を洗い流し、暴力を排除することを訴えた。暫定的な司法として、加害側に暴力行為を認めさせ、被害者と向き合うことを進めるという。

 コートジボワールは、実質的な首都であり経済の中心でもあるアビジャンなど南部に富が集中し、貧しい北部と間の格差が生じている。イスラム教徒の多い北部、キリスト教徒の多い南部という色分けもある。

 長い時間をかけ国内の不安定要因が伏流のようにできていったということだろう。それは日本にとって遠い話だろうか。たとえば、米軍基地をめぐる沖縄の状況は暗い伏流を生んでいると言えないのだろうか。少し次元が違う話かもしれないけれど、ふとそう思う。

 そんな中で、ワタラ現大統領を大統領選から排除しようという動きが2000年前後の暴力の背景にはあった。ワタラ氏の出自をめぐり「コートジボワール人とはだれなのか」という問題が浮上し、地域主義や部族主義をあおり、対立を激化させた。

 「コートジボワール人には新しい思考が必要です。地域主義がはびこりすぎた。この地に住む人はみな同じ権利を有する人間なんだとみなが認識しないといけない」

 和解の道には明らかな終着点を見いだしにくい。「最後には司法が必要になるでしょう。残虐な行為を行ったことは追及されなければならない。でも、まず司法を受け入れる過程が必要なのです。とても重要で難しい課題に直面しているのは事実です。でも、みんなが小さな集団ではなく、国全体の利益を考えられる日が来ると信じています」

 12年前に入った墓穴の場所に行ってみた。墓地の隅にあって当時は周りに草がはえているだけだった。その草地にはびっしりと墓ができていた。「2002年」などと書かれた墓が、すでに古びて見える。

 墓穴はむろん埋められて、タイルが敷かれ、タイル張りの墓標なのか壁なのかわからないものができていた。確か、30人前後がここに埋められたはずだ。だが、どこにもだれの名前も記されていない。

 色あせた造花の束が、投げ出されたように、ぽつりと置かれていた。

     ◇

■12年前の記事から

《コートジボワール、対立の構図(アフリカはいま 排除の論理)》

 西アフリカのコートジボワールで10月に実施された大統領選で、不利な選挙結果を無効にしようとした軍事政権に、市民が立ち上がり、独裁者を倒した。権力の横暴が絶えないアフリカでは異例の「革命」と見られたが、その後、選挙のやり直しを巡り、有力政党の支持者同士が衝突し、多くの死者が出た。止まらない混乱の背後に、政敵を「よそ者」として排除する論理が働いている。権力争いが、それぞれの支持者を巻き込み、地域や宗教間の分裂、対立に進みかねない危うさをはらんでいる。

◇資格改正

 「開票速報をやめろ」

 投票翌日の10月23日、中心都市アビジャンの大統領官邸に近い選挙管理委員会に武装した兵士が乗り込み、ギエ選挙管理委員長(44)を取り囲んだ。開票速報は現職のゲイ大統領の苦戦を伝えていた。兵士たちは委員会のコンピューターを押さえたうえで、しばらくして速報再開を迫った。委員長は「信用できない数字は公表できない」と突っぱねた。

 ゲイ大統領は翌日、選管を解散し、自らの当選を宣言した。

 ゲイ氏は昨年末にクーデターで軍参謀長から暫定大統領に就任、今年予定されていた大統領選での当選を狙って、周到な準備をしてきた。まず一番の政敵だった元首相で共和連合のワタラ党首を排除した。同氏には母親がブルキナファソ人だという「疑惑」があった。ゲイ氏は選挙前に憲法を改正し、大統領候補規定に厳しい国籍条項を加えた。ワタラ氏は最高裁の資格審査で大統領候補から外された。

 最大政党コートジボワール民主党の候補も別の理由で除外。ゲイ氏の当選は確実視された。

 ところが、選挙戦が始まると、対立候補として残っていた第二政党のイボワール人民党党首のバグボ氏が支持を集めた。ゲイ氏の拠点で開いた集会も大盛況だった。

◇民衆衝突

 ゲイ氏の一方的な勝利宣言に市民は憤激し、町にあふれ出た。アビジャンでは兵士の銃撃などで市民50人以上が死んだとされる。それでも勢いは止まらない。給料の未払いで軍内部にも不満が強かった。大統領官邸に群衆が迫ると、ゲイ氏は行方をくらました。

 その後、発表された開票結果はバグボ氏の得票率59%、ゲイ氏33%。ここで終われば「アフリカでは画期的な民衆革命」だった。しかし、混乱は続いた。

 今度はワタラ氏の支持者が、選挙やり直しを求めてデモを始め、勝利に酔うバグボ氏支持者や兵士と各地で衝突した。わずか2日間で死者は100人を超えた。

 12月10日にバグボ政権下で国会議員選挙があった。ワタラ氏はまたも除外された。選挙戦の最中、共和連合支持者と警官隊が衝突、多くの死者が出た。2カ月前の「軍事政権対民衆」という構図が、政党同士、民衆同士の対決という救いのない構図になった。 

◇地域格差

 ワタラ氏は国際通貨基金(IMF)の副専務理事をつとめた国際派だ。国内では無名だったが、独立後、長期政権を続けたウフェボワニ大統領から1990年に首相に抜てきされた。93年の同大統領の死後、後継者争いの中で、ワタラ氏に脅威を感じる政敵たちは「ワタラ氏はコートジボワール人ではない。出生を偽っている」と攻撃し始めた。

 ワタラ氏は疑惑をでっち上げとし、「首相の時、大統領は病気がちで、私が実質的な大統領代行だった。それこそ私が大統領候補たりうる何よりの証拠だ」と主張する。さらに、「私が北部の出身でイスラム教徒だから排除されるのだ」と訴えている。共和連合支持者には北部出身者のイスラム教徒が多いのだ。

 コートジボワールでは開発や富がキリスト教徒の多い南部に集中し、経済の南北格差が生じている。選挙実施で噴き出したワタラ氏を巡る確執は、出身地や宗教の違いを抱えながら共存してきた国に、深刻な対立を芽生えさせている。

     ◇

《墓穴からの願い(特派員メモ・アビジャン)》

 穴を見下ろす100人以上が、突然指を一本突き上げた。絡みつくようなほこりを抑えてほしい、という願いのこもった歓声に合わせ、雨が落ちてきた。

 湿度の極めて高いこの街に、砂ぼこりはなじまない。でも、ここは墓場で、掘られたばかりの墓穴の中だった。

 10月の大統領選後に混乱が生じ、数百人ともいわれる市民が死んだ。選挙結果をごまかそうとした軍に抗議し、「民主主義に殉じた」人々。政党支持者間のいがみあいで殺された人々。学校のプール半分ほどの大きさの墓穴は、この政党間の対立で殺された人々のものだった。

 報道機関だというと、弔いの人たちがうねりながら道を開けてくれ、そのうち墓穴を見下ろす位置にまで進んだ。周りの人たちに「入れ」と促され、あまりいい気分はしなかったが約2メートル下に飛び降りた。

 見下ろす人々の表情には、興奮、怒り、不安が交じっていた。棺の到着をみるのに良い位置をめぐって、つかみ合いのケンカがそこここで生じていた。靴の中が砂だらけだ。墓穴を平らにしようとしてか、方々からスコップの砂が飛んできた。

 真っ白な棺が穴に下ろされ、二つ並んだ。あと30あまりが加わる。

 棺をおおいて事定まる、というにはあまりに残酷な末路だ。選挙で多数の人の死ぬことが、当たり前ではない時代は、いつになったらこの大陸にくるのだろうか。墓穴から見上げて思った。

     ◇

■1995年に書いた記事から

 1995年に書いたシリーズの2本です。

《幽閉の都:上(メディアの闇 旧ユーゴ紛争から1)》

 眼下のサラエボの街明かりと夜空の境目あたりに、砲弾が赤く尾を引く。8月22日。ライトを消した車は、闇の山道をゆっくり下る。

 「タクシー」の運転手と、検問所で後部座席に乗り込んできたおばちゃんが突然、おし黙った。現地語のニュースだけが車内に流れる。山越えで最も危険な部分に差し掛かったらしい。

◇山道の事故が多発

 車の残がいが、崖に沿って点々と続く。銃撃を受けたものなのか、交通事故の末に放置されたのか、暗くてわからない。その銃撃を避けるため、ライトをつけずに進んでいるのだ。ブレーキランプもつかない。

 20年以上動いているポンコツのタクシーは、エンストする。時折、砲撃、機関銃の音。崖側の針葉樹林は消えて、点々としかない街の明かりが望める。どこかで銃口がこちらを向いていると思うと、下をみたくない。効果はないとわかっていて、リュックを胸元に抱きしめる。緊張で胃がせり上がってくる。

 3日前には、和平調停案をたずさえて現地入りした米政府幹部ら4人がこの山道で、装甲車もろとも転落し命を落としていた。砲撃や銃撃よりも、交通事故の危険性が実は高いのだ、という人もいる。

 手前の検問所で、「戦争が始まった1992年からこの先で4年間で600人が死んだ」と警備に当たるフランス軍兵士は話した。600人は大げさだとしても、気分はよくない。昼間にこの検問所から先に進めるのは、白い車体に「UN」と書かれ、防弾装備を施した国連車両だけだ。

 「この道を行くのは、ロシアン・ルーレットだ」と検問所で夜を待つ運転手たちは言う。回転式短銃に弾を1発以上入れて、順番に頭に当てて引き金を引く、死のゲーム。いつかは、自分に当たる番が来る、というのだ。

 怖さを紛らすため、多くがアルコールに頼り、ますます事故の危険性を高くしている。中には泥酔して、検問の警官に絡む運転手もいた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナには、多数を占めるモスレム人と、セルビア人、クロアチア人らが地域ごとに交じり合いながら暮らしていた。旧ユーゴの一部だったスロベニア、クロアチアが民族主義の高まりとともに独立を宣言し、その流れはボスニアにも及んだ。

 旧ユーゴ全体では多数派のセルビア人は、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立によって同国内では逆に少数派に転落することになる。これを避けたいセルビア人勢力と、モスレム人、クロアチア人勢力が泥沼の戦いを繰り広げている。

◇安全地域にも砲弾

 モスレム人が大半を占める首都サラエボは、国連の「安全地域」に指定されているが、セルビア人勢力に包囲され、雨は降らなくても、鉄の塊の降らない日はないとまでいわれる。市内を複雑に前線が走り、数百メートル先には敵の銃口、という生活が続いている。包囲しているセルビア人勢力にとっても、多数派のモスレム人に包囲されているようなものなのだ。

 セルビア人勢力支配地を通って、セルビア人勢力が押さえているサラエボのある地域に入ることはできる。逆にモスレム人、クロアチア人勢力が支配している地域を通り、彼らの側のサラエボに入ることもできる。しかし、それぞれのサラエボへの道は相手側の銃撃にさらされ、二つの地域を行き来できるのは銃弾と砲弾だけだ。

◇物資運んで決死行

 セルビア人支配地に入るのは、セルビア人勢力側の許可が下りず、不可能だった。

 モスレム人が支配するサラエボに入るには三つの方法があると聞いた。国連の飛行機、装甲車両に同乗させてもらうか、防弾ガラスなどを装備し国連そっくりに白く塗った、欧米メディア所有の車に乗せてもらうか。この二つが安全な選択だ。

 「飛行機は今飛んでいない」「記者に同乗を許していない」。国連保護軍、国連難民高等弁務官事務所の反応は冷たい。欧米メディアにも、サラエボを目指すクルーはいないということだった。仕方なく、第3の方法をとった。

 サラエボの西約20キロにある町タルチンまではクロアチアからバスが通じている。そこから地元のタクシーが、高額のドイツマルクと引き換えに、夜のイグマン越えをするというのを聞いていた。サラエボで極端に不足する生活物資や食糧、燃料の木材などを運んで、決死の山越えをする人々がいるのだ。

 イグマンはサラエボの南西に広がる山塊で、1984年の冬季オリンピックではジャンプ競技が行われた場所だ。モスレム人勢力側にとってはサラエボへの唯一の補給路で、この要衝を巡って戦争初期から戦闘が繰り返された。

 戦地のメディアを探るには、戦闘状態の続く地に行ってみなければならなかった。イグマンを越えて、市街の手前にある空港までたどり着けば、市内に安全に抜ける道がある、と何人かから聞いた。タクシーの運転手もそう話していた。

 しかし、ことはそううまく運ばなかった。

     ◇

 「今回の戦争は、すぐれてメディア戦争と言えると思う」と明石康・旧ユーゴ問題担当国連事務総長特別代表は言う。戦後50年に合わせ、50年前の戦争を、メディアがどう伝えたかをこれまで見てきた。50年後の今の戦争をどう伝えているのか。ボスニア紛争を巡るメディアの活動を探る。

     ◇

《幽閉の都:下(メディアの闇 旧ユーゴ紛争から:2)》

◇夜をさく砲撃の音

 「ボン」。鈍い音が遠くに聞こえる。「パパパパン」と軽いのは機関銃の音だろう。夜の冷気と戦争の音が、ガラスのなくなった窓から入ってくる。

 発射音はしても着弾する音がない。と、「ボン」の後に「ビュン」と短い飛来音が続き、雷が落ちたような衝撃音が近くで響いた。隣のベッドでは、タクシーの運転手が不規則ないびきをかいている。警戒のためだろう、付けっぱなしのラジオからは、マドンナの曲「パパ・ドント・プリーチ(パパ、説教しないで)」が流れる。2発目が近くに落ちた。

 しょうがないとわかっていても、ボンという音とともに身を縮める。「ビュン」が聞こえないと、体から力が抜ける。

 発砲音に合わせるように犬が5分とおかず集団でほえる。ストレスからか、やせて毛の抜けた犬が目につく。

 セルビア人勢力が撃っているのか、モスレム側か、厳密にいうとわからない。しかし、包囲された身になると、包囲しているセルビア人側の砲弾だと思うようになる。

 タクシーで直接サラエボの中心部には行けないが、空港近くにたどり着けばもう安心、のはずだった。そこから市内に抜ける通路がある、とさんざん聞かされていた。しかし、外国人は通行を許されない、とタクシーの運転手が突然言い出した。

 国連の停戦監視団が借りている民家を訪ね、市内中心部への輸送をかけあった。国連保護軍のメディア担当に翌朝電話するように言われて、帰された。仕方なく、運転手の親類宅に一晩お世話になることになった。

 電気も、水も、食料もない、と運転手は言う。家中で電灯1個分の電気は来ているようだ。家人の部屋からライトを移動してくれた。窓側には黒い布をかぶせた。灯火管制、ということらしい。

 翌日朝、国連保護軍のメディア担当に電話でサラエボ入りする車両に乗せてくれるよう頼んだ。回答を待つ間、道に出てほかの国連関係の車をつかまえようとした。

 歩いているのは井戸に水をくみに行くおけを持った人と、農作業の人、それと子どもたち。約200メートル向こうの家を指さし、「チェトニック(セルビア人勢力を指す)」とモスレム人の子どもたちはいう。ひん曲がった鉄の小さな塊を拾い「グレネード(てき弾)」と説明してくれる。

◇人も車もダッシュ

 7時間ほどたって、仏軍の一団がサラエボを目指している、という連絡がメディア担当から入った。待ち合わせ場所を指定してもらい、その橋に移動した。

 検問所の警官と一緒にいると、突然風を切る回転音がした。頭上数メートルを、弾丸が後ろから通り過ぎる。慌てて手を頭の後ろにかざした。警官は首をすくめた。橋にはだれもいなかった。

 通行は止められた。川を挟んで、車両と歩行者が様子を見る。5分待って、通行していい、と警官が合図した。車も、人も、最初はダッシュで渡る。リヤカーは、周りの人が一緒に押して走った。

 5分もすると元通り。みなゆっくり歩いて渡っている。「何もなかったようだろう。今は平和なんだ。本気で撃ち合い始めたら、こんなもんじゃない」と警官は話した。

 国連保護軍の装甲車両に乗せてもらい、サラエボ中心部に入った。大通りはセルビア人勢力の支配地に近いため、人影がない。タクシーに乗ると、大通りでは狙撃されるのを避けるため時速約120キロですっ飛ばす。

 人の流れは、建物の陰に隠れた裏通りにある。バスも電車もないので、ほとんどの人が歩いて職場などに向かう。タクシーの女性運転手ファティマーさんは「人助け」と言っては、同じ方向に向かう人を乗せた。

 一般の家庭には、4日に一度しか満足に電気が来ない、と聞いた。ファティマーさん宅では、まきでコーヒーの湯を沸かしていた。

◇カフェに若者たち

 「電気がある場所に行っても、夜、手洗いに入る時にライトをつけるのを忘れてしまうでしょう。それが私たちの現実。外を普通に散歩する、と考えただけでなんだかこわくなる」と20代の女性は話した。

 夜、明かりのあるカフェに、若者が集まる。座れなくても、周りで仲間と会話を楽しんでいる。ディスコ調の音楽が、店から飛び出してくる。「サラエボへようこそ。戦争をしてると思えないだろう。でも、いつこの店先に砲弾が落ちてもおかしくない」と地元テレビ局に勤めるヤドランコ・カタナ氏(30)は話した。夜9時を過ぎると、警官が外出を取り締まる、という。若者たちにとっては、つかの間の息抜きだ。

 戦争初期、外国の報道陣でごった返したホリデー・インに8月23日、泊まった。宿泊しているのは、サラエボに常駐している外国の記者十数人と、国連の一部の人たち。ホテルは砲撃を受け、半分ほどは使えないようだ。

 それでも、水が出るし、明かりもつく。地下にレストラン「シェルター」が店を開き、数人の客を相手に、ピアノの演奏が続いた。

     ◇

《通いあった心(特派員メモ・アスマラ)》

 みんな飛行機を待っていた。

 エリトリアのアスマラ空港に、数カ月前まで激しい戦闘を繰り返していたエチオピアからの飛行機が到着する。飛行機には、約100人のエリトリア人捕虜が乗っているはずだった。

 白いショールをまとった女性が、緑の枝や花束を手に、空港前広場で歓迎の歌を歌い続けていた。デゲデン、デゲデン、と軽快な太鼓の音に乗って、歌はとぎれることなく響いていた。

 空港の駐車場の、一番目立たない隅っこに、1台のおんぼろバスが止めてあった。気づくと、女性や子どもがバスに近寄っていた。手を振っている。バスの中からは、白いシャツを身につけた男たちが手を振ってこたえていた。

 それは、エリトリアの捕虜と交換に解放される、エチオピア人捕虜を乗せたバスだった。

 エリトリアの女性たちと、エチオピア兵たちはバスの窓越しに会話を交わした。身ぶり手ぶりをまじえ、そこには笑顔があった。

 30年以上の長きにわたる両国の対立や戦闘に疲れ、本当の平和を願う心がそうさせたのか。大切な人の帰還を今や遅しと待つ気持ちと、大切な人のもとに帰る気持ちが通いあったのか。人混みから離れたバスの周りで起きた、小さな出来事の真意はわからない。

 現場で知り合ったドイツ人の記者は潤んだ目をして「すごくいい光景を見たね」と言った。「うん。いい光景だったね」と答えた。

江木慎吾

プロフィール江木 慎吾(えぎ・しんご)

61年生まれ。社会部をへて00年代、ナイロビ、ニューヨーク支局に勤務。バルカン半島、中東、アフリカ各地の紛争取材を経験しつつ、小心さは変わらない。動作が緩慢でのんきに見えるが、気は短い。趣味は散歩。しばしば二日酔い。だめトラファン。

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