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(オルタナティブ・ニッポン)「遺構こそが悲惨さ伝える」

写真:木村拓郎さん拡大木村拓郎さん

写真:雲仙・普賢岳の火砕流で焼けた大野木場小学校=木村拓郎さん提供拡大雲仙・普賢岳の火砕流で焼けた大野木場小学校=木村拓郎さん提供

■減災・復興支援機構、木村拓郎さん(64)

「話そう、震災遺構」特設マップ

 これまで、雲仙・普賢岳の噴火や中越地震など七つの災害現場で仕事をしてきた。そのたびに、映像や文字では伝わらない独特の雰囲気に圧倒される。だからこそ、各地で遺構の保存を働きかけてきた。その場でだけ感じ取れる現実の重みは、外部の人にとっても、その土地を訪れる貴重な動機になると思うからだ。

 雲仙・普賢岳の大火砕流から1週間後の1991年6月、長崎県深江町(当時)に入った。山が市街地に迫り、火山灰が人家に降り積もる。そこに立って初めて感じるスケール感があった。

 この災害では 、火砕流で焼失した大野木場小学校、土石流で埋まった住宅群などが残された。

 地元住民の強い要望で保存が決まった同小学校も、「土石流被災家屋保存公園」となった住宅群も、調査や補修などの一部をのぞき、国の予算で整備された。いずれも、遺構として県内外からの防災学習や視察の人々に災害の悲惨さを伝え続けている。

 2004年10月の中越地震。土砂崩れでせき止められた川がはんらんし、一部が大きな被害をうけた新潟県山古志村の旧木籠集落には、復興を支援する人や地元を離れた被災者が集う場所がある。

 被災から2カ月後、私は、被災した住宅を保存して公開すべきだと避難中の住民を説得した。土砂災害につながる中山間地の震災の恐ろしさを伝える遺構にするには、住民の意思が不可欠だった。

 被災した住宅はそのままの姿で残った。2年後には、被災集落がよく見える高台に集会場「郷見庵」が完成。震災を機に集落を出た人や支援者らが数多く訪れる。災害を間近に感じられるからこそ、人が集まるのではないか。

 先日訪れたスマトラ沖大地震の被災地・インドネシアのバンダアチェでは、津波で住宅地の真ん中に流され、自治体によって保存された巨大船が観光地に。周囲には船のポストカードやDVDを売る土産物屋が軒を連ねていた。

 東日本大震災では多くの人が犠牲になったため、遺構を多くの人の目に触れさせることに抵抗を覚える人も多いだろう。亡くなった人を悼む気持ちや、遺族への配慮は大切だ。だが、遺構を残せば、外からここを訪れる人が増え、災害の教訓を多くの人に伝えることができる。多くの人が訪れることで収入が増え、地域全体の生活再建に役立つ可能性もある。

 むしろ積極的に遺構を残し、地域のために役立てるべきではないだろうか。

     ◇

 〈きむら・たくろう〉1949年、宮城県石巻市生まれ。東北工業大卒。一般社団法人「減災・復興支援機構」理事長。各地の防災計画や復興計画の策定に携わった。

 東日本大震災後は有識者でつくる「3・11震災伝承研究会」の座長を務める。昨年9月には国や県に保存を求める宮城県内の被災建物や集落など46件のリストを発表した。

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