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ナイジェリア南部の石油都市ウォリから、南東部のウムアヒアに8日、向かった。1968年、この都市は生まれて間もない国の首都になった。1年あまり後に消えゆく国。ビアフラという名前だった。
ナイジェリアからの分離独立を宣言し、激しい内戦と飢えで疲弊して滅んだビアフラに、当時は世界の目が注がれた。ナイジェリアが内戦と呼ぶビアフラ戦争は、部族戦争でもあった。
この国には200をはるかに超える部族がいるとされる。英国の植民地支配によって、ハウサの支配する北部、ヨルバが抑える南西部、イボの南東部と色分けされた。連続したクーデターや北部でのイボ族虐殺などの中で67年5月、南東部の軍政知事に任じられていたイボ族のオジュク中佐がビアフラ共和国の独立を宣言した。
ナイジェリア軍との激しい戦闘が始まった。ビアフラを国家として承認したのは数カ国にとどまったが、戦争でやせ衰えた子どもの写真は世界に衝撃を与えた。ビアフラ側の戦列に加わる外国人が数多くいた。
首都はエヌグという都市に置かれていたが、敗走するなかでウムアヒアに移された。そのウムアヒアの丘に掘られた地下壕(ごう)から世界に向けたラジオ「ビアフラの声」が放送された。
放送局はいま、国立戦争博物館になっている。地下には通信機器が残され、敷地にはビアフラ軍が使った戦闘車両などが陳列されている。
地下壕の出口から、ひとつ離れた丘に置かれた政府施設に向けて塹壕(ざんごう)が残る。ここをつたいオジュク中佐は放送局に出向き、世界に支援を訴えかけた。草むして「兵(つわもの)どもが夢のあと」の趣だ。
政府施設は個人から寄贈された邸宅で、庭に掘られた深さ約8メートルの地下壕がオジュク中佐の住居だった。閣議を開く8畳ほどの部屋に、機密書類と資金を保管する小さな「国庫」が備え付けられていた。
声がうなるようにこだまする。にわかづくりにしてはよくできていて、撤去された家具を戻して少し手を加えれば今でも過ごせそうだ。二つの緊急脱出口をもった、日本流にいえば4DKといったところか。ただその一角の長さ20メートルほどの細い廊下が捕虜収容施設だときいてぞっとする。居住空間と壁一つ隔てた場所で拷問を受け、捕虜たちは外に連れ出されて処刑されたという。
博物館を案内してくれた職員のスマート・アノジックさん(31)はイボ族。歴史を伝える客観的な立場とイボ族としての思いは違うのではないか聞いてみた。
「いえ、歴史を学ぶものは客観的でなくてはなりません。ここには多くの学生たちも訪れます。戦争の悲惨さ、戦争は悪だということを心に刻んでほしい。そして、いい国づくりのためには、部族に根ざした感情をひとまず置かなければいけないということを」
土曜日の昼時、私たちがいる間に訪れたのは若いカップルと、小さな子どもを連れた父親の二組だけだった。

61年生まれ。社会部をへて00年代、ナイロビ、ニューヨーク支局に勤務。バルカン半島、中東、アフリカ各地の紛争取材を経験しつつ、小心さは変わらない。動作が緩慢でのんきに見えるが、気は短い。趣味は散歩。しばしば二日酔い。だめトラファン。