エリトリアについて語るとき、この国には不名誉なことにも触れなければならない。世界でもっとも報道の自由のない国と言われていることだ。米国に本部を置くジャーナリスト保護委員会(CPJ)が定期的に発表するこのランキングで、エリトリアは昨年、北朝鮮を抜いて世界最悪という位置に立った。
外国メディアを締め出し、国内メディアは政府にコントロールされている、というのがCPJが挙げた理由だ。拘束されたり、国外脱出を余儀なくされたりする記者も多いという。
その意味では、風に吹かれに、というたわいもない理由にせよ、取材に来られたのは幸運と言える。それは、在日エリトリア大使館の方々の理解と協力があったからこそだ。
今年1月、エリトリアでクーデター騒ぎがあった。それから半年たったいまも、いったい何があったのか、普通の人たちには知らされていない。クーデターと呼ぶようなものではなかったという話も聞いたし、失敗に終わったが、クーデターだという話も聞いた。
エリトリアは1993年に隣にある東アフリカの大国エチオピアから独立した。しばらく良好な関係が続くかと思われたが、98年には国境紛争が勃発した。
かつてエリトリアを訪れたのは、この紛争の和平合意が結ばれた直後の2000年末だった。その時はセナフェという町の郊外で停戦ラインを挟んでにらみ合う両軍の姿を見た。そこがどうなっているのか、今回は訪ねてみたいと思った。
6月20日未明にアスマラ入りし、翌21日いっぱい、動き出せなかった。それはこのセナフェに行く許可がなかなか出なかったからだ。許可が出るのを待って、雨模様のアスマラを散歩した。
00年のころと、街の中心部は何一つ変わっていないようだ。変わっていないのはこれまで「発展していない」という否定的な意味しか持たなかった。アスマラの場合はその要素もあるけれど、少し違う。
石造りの家、れんがの教会など、この街にはかつての宗主国のイタリアの影響を随所に感じる。高原都市ということもあって街は清潔で道にはきちんと歩道がある。まとわりつく物売りはいない。何より、犯罪に巻き込まれる危険を感じないで歩ける、アフリカでは数少ない都市の一つだ。
6月20日は独立闘争の殉死者の日だった。その日に合わせ、市内の目抜き通りにオブジェが飾られていた。生前の姿をとどめないほど損傷した遺体から貴金属をあさるエチオピア兵。口を真っ赤に染めたハイエナがそれを遠巻きにする。
拷問を受けるエリトリア人の背後で食事をするエチオピア兵たちの像もあった。携帯電話で写真を撮る人もいたが、どう反応していいかわからずに眺める人が大半に見えた。殉死者を悼む気持ちよりも、痛みと憎しみが増幅されそうだ。
ナイジェリアでは、独立を目指してつぶされた国ビアフラの遺構を見た。エリトリアは独立を果たして20年、アフリカの星と呼ばれながら、かくも長き憲法の不在を続け、隣国との緊張が解けない。国が独り立ちする難しさを、不気味なオブジェを眺めつつ思った。

61年生まれ。社会部をへて00年代、ナイロビ、ニューヨーク支局に勤務。バルカン半島、中東、アフリカ各地の紛争取材を経験しつつ、小心さは変わらない。動作が緩慢でのんきに見えるが、気は短い。趣味は散歩。しばしば二日酔い。だめトラファン。