平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる森重子さん=9日午前11時12分、長崎市の平和公園、日置康夫撮影
長崎市の平和祈念式典で、被爆者を代表して「平和への誓い」を読み上げた森重子さん(72)=長崎市=は、原爆に家族の生活を壊された体験を語ることで平和の大切さを訴えた。
63年前の8月9日、「悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし」、爆心地から約800メートルの中学校に通う兄を奪った。防空壕(ごう)にいた森さんは助かったが、兄を捜し回った母が翌年に病死。十数年前に姉、5年ほど前に妹を、原爆症とみられる病気で亡くした。「生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です」
「平和憲法と非核三原則を世界に広げることこそが戦争をなくし、核兵器の増大と拡散を止めるのに有効だ」と呼びかけた。「祈りや怒りで声が詰まったが、伝えたいことを強調できてほっとした」
◇
森さんの「平和への誓い」の全文は以下の通り。
◇
あの日、私は9歳でした。当時、長崎市南部の南山手町に祖父母、両親、兄1人、5人の姉妹の大所帯で生活していました。
8月9日、朝からの空襲警報が解除になったので防空壕から出て空を見上げていると、友だちが防空壕に忘れ物をしたと言うので一緒に中に入りました。
その時です。突然強い風が吹いて持っていたロウソクの灯が消え、暗闇の中に火の塊のようなものが飛んできました。やがて近所の人たちが次々に駆け込んできて、皆口々に「大変な爆弾が落ちた」と叫んでいました。
私を捜しに来てくれた母はガラスの破片で背中に傷を負っていました。末の妹にお乳を飲ませていたとき、爆風で割れた窓ガラスが背中に刺さったのです。家族の無事を確認しましたが、浦上地区の中学校に登校した3歳年上の兄だけは夜になっても帰ってきません。その日の朝、兄はどういうわけか「頭が痛かけん、学校に行きたくなか」と渋ったのを、父が「なんか男が、頭の痛かくらいで学校ば休むな」としかったのです。
無理に送り出した父の悔やみようは大変なものでした。翌日から毎日毎日、父と母は浦上一帯を捜し、黒焦げの死体や、「水が欲しい」と足をつかむ瀕死の人たちの顔を一人ひとり見て回ったと聞きました。結局、兄を見つけることはできず、中学校で焼いたたくさんの死体から骨を一本だけもらい葬式を済ませました。私は今でも、兄がひょっこり元気な姿で帰ってくるのではないかと思っています。
両親は、ものすごい放射線を浴びていたのです。母は翌年の10月に亡くなりました。33歳、妊娠5か月でした。父もその4か月後に亡くなりました。残された私たち姉妹は別々の親戚に引き取られ、ばらばらの生活を強いられました。その後、姉と妹の二人は原爆症とおぼしき病気で亡くなりました。
悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし、何十万人もの尊い命を奪い、生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です。核兵器の廃絶と平和を求める世界の人々の願いとは裏腹に、今なおアメリカなど大国のエゴで大量に保有され、拡散されつつあります。東西の冷戦が終わっても、民族や宗教の違いや貧富の差からくる戦争は現在も世界中で絶え間なく続き、多くの人々が苦しんでいます。
しかし、わが国は戦後63年間一度も戦争をすることなく、一人の日本人も戦争で殺されたり、他国の人を殺したりしていません。これは、多くの人々の犠牲の上に定められた平和憲法のおかげです。私は、この平和憲法と非核三原則を日本のみならず世界中に広げていくことこそが、戦争をなくし、核兵器の増大と拡散をとめる有効な手段であると考えます。
地球上のすべての人々が、いつまでも平和で豊かに暮らしていくことを願ってやみません。
2008年8月9日
被爆者代表 森重子