写真の一部はJAXA提供
2013年夏のイプシロン打ち上げは多くの人が注目しました。この固体ロケットの源流が55年に発射実験があった長さ23センチのペンシルロケットです。日本でのロケット開発の歩みを、宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授の的川泰宣さんが貴重な写真や動画とともに振り返ります。
噴進砲=的川泰宣さん提供
日本のロケット研究は、兵器開発の一環として始まった。旧陸軍と旧海軍は1931(昭和6)年、固体燃料ロケットの研究を始めた。35年ごろには液体燃料ロケットの研究にも手をつけた。砲弾のロケットに火薬を入れ、砲から出ると同時に点火して飛ばした。砲弾は噴進弾(ふんしんだん)、発射機は噴進砲(ふんしんほう)と名付けられた。
太平洋戦争中の44年、固体燃料ロケットを使った有人グライダー「桜花(おうか)」が完成した。乗員ごと敵艦に体当たりする特攻機として沖縄戦などで使われた。全長約6メートルと小さく、木製のため敵がレーダーで探知するのはとても難しかったという。
軍用機の胴体につるされた「桜花」=的川泰宣さん提供
戦争末期には、液体燃料の有人ロケット機「秋水(しゅうすい)」が開発された。テスト飛行をしたが完成せず、敗戦を迎えた。多くの資料が終戦後に焼き払われ、当時ドイツに次ぐ世界第2のレベルといわれた日本のロケット技術は引き継がれなかった。
ドイツの技術で作られた有人ロケット機「秋水」=的川泰宣さん提供
ペンシルロケットをもつ糸川英夫=JAXA提供
戦後、日本のロケット研究を引っ張ったのは、東京大学生産技術研究所の糸川英夫だった。
火薬の研究で有名だった元日本油脂社長の村田勉から、戦車や飛行機を近い距離から攻撃するバズーカ砲に使った無煙火薬を手に入れ、開発を始めた。
もっと!村田勉
元日本油脂社長の村田勉氏
(1986年ごろ撮影)=的川泰宣さん提供
元日本油脂社長の村田勉は、1934年に神奈川県藤沢市辻堂で自作のロケットを打ち上げた。
火薬を使い尾翼もつけたが、海へ向かわず林に突入した。村田は後に戦艦大和の大砲に使われた火薬の成分や製造方法を考えた。
戦後は日本のロケット開発の先駆けの一人となる。
糸川が当初目指したのは、太平洋を2、3時間で横断飛行するロケット旅客機だった。しかし、国からお金をもらうことができず断念。57から58年にあった国際地球観測年に向けて開発することにした。
54年、直径1.8センチ、長さ23センチ、重さ200グラムのペンシルロケットが完成した。当時は打ち上げられたロケットを追跡するレーダーの技術が未熟で、水平に発射して飛び方を調べた。
1955年に東京・国分寺で実施された
ペンシルロケットの試射=JAXA提供
55年4月、東京都国分寺市の工場跡で試験があった。長さ約1.5メートルの発射装置から水平に発射し、薄い紙の表面に細い針金を貼ったスクリーンを次々と突きぬけ、試験は成功した。
この月には計29機の実験をした。燃料が燃える時間は約0.1秒。高速で移動する物体をとらえるカメラも使い、尾翼の角度や重心の位置によってどう飛び方が変わるのかデータを集めた。
ペンシル300の発射=JAXA提供
その後、長さを30センチに伸ばし、2段式にしたペンシルロケット(ペンシル300)を水平に発射する実験を重ねた。55年8月6日、初めてペンシルロケットを空へ向けて飛ばす日がやってきた。場所は、秋田県の道川海岸(現在の由利本荘市)。海岸が広く使えるのが理由だった。ペンシル300は午後3時32分に打ち上げられ、高さ600メートルまで飛んだ
もっと!ペンシルロケット
ペンシルロケット300の発射装置
=JAXA提供
1955年8月6日午後2時15分、ペンシル300の1回目の打ち上げがあった。
報道陣70~80人が見守る中、発射した途端に発射台から砂浜に滑り落ち、ネズミ花火のようにはい回った。
ロケットの支えが不十分だったのが原因だった。
ペンシルロケットに続いて開発されたベビーロケットは、長さは120センチに伸び、重さも10キロになった。2段式で三つのタイプがあり、55年8月から12月にかけて計36機打ち上げられ、いずれも高さは6キロに及んだ。 =敬称略(的川泰宣・JAXA名誉教授)
的川泰宣(まとがわ・やすのり)
1942年、広島県生まれ。東大工学部を卒業、同大大学院で糸川英夫博士に教わる。日本初の人工衛星やハレー彗星(すいせい)探査機の打ち上げに携わる。2008年にNPO法人「子ども・宇宙・未来の会」を立ち上げる。朝日新聞夕刊で毎週土曜日に「宇宙がっこう」を連載中。
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