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・長野県上田市のゆるキャラ「さニャだ幸村」
・ゲーム「戦国無双4」の真田幸村 ©2014 コーエーテクモゲームス All rights reserved.
・HJ文庫「百花繚乱」の真田幸村 ©すずきあきら・Niθ/ホビージャパン

 戦国時代、信濃の国に真田氏という一族がいた。地方の一豪族であったにもかかわらず、動乱の時代を知恵と度胸でくぐり抜けた真田氏の業績は、江戸時代から人々を魅了してきた。そして彼らは今もフィクションの世界で奔放に活躍し続けている。

 大坂夏の陣の慶長二〇(1615)年、豊臣方について戦った真田幸村と大助親子は武運つたなくこの世を去った。はるか後年、天保四(1833)年あたりに、彼らが登場する読み物「本朝盛衰記」が成立。物語の世界で真田親子は琉球を駆け巡ることになる。真田一族は二百年の時をかけて、江戸の人々の想像力を借りて再度の旗揚げを果たしたというわけだ。

 そこからさらに二百年弱。現代の真田氏はアニメや映画、ドラマ、ライトノベルなどに登場。幸村は美男子になったり女体化したり猫になったりしている。江戸時代とは、かなりイメージが異なる。私は現代の娯楽文化には詳しくないが、赤くて元気、リーダーで軍師であれば幸村、ということになっているのだろう。

 江戸時代と現代の真田一族の間を埋めるのが、明治大正時代の娯楽物語である。これらの創作物がなければ、今の真田一族の人気もなかったかもしれない。キャラクターとしての真田氏がはるばる渡ってきた旅路を振り返ってみたい。

■徳川時代を生き延びた英雄伝説

 江戸時代、真田一族にまつわる書籍の出版は表向きは禁止されていた。当時、幕府の方針に反したり徳川家の事績にかかわったりするような書籍は禁制品だったのだ。幕府に刃向かった真田幸村らの活躍を書き表した書物が、公に認められることはなかった。

 だが、それでも真田一族の物語は人気があった。ややこしいが禁止というのはあくまで建前で、「実録」と呼ばれる歴史を扱った物語が存在し、出版社を通さず貸本屋が流通させていた。有名なのは「真田三代記」や「難波戦記」で、これは幸村と父の真田昌幸、息子の真田大助の生涯を描いた作品だ。今も愛される真田一族物語の原点といったところだろう。人形浄瑠璃など演芸の世界でも真田一族の物語は大人気だった。

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「真田三代記」(鈴木金輔 明治二一[1888]年)の真田幸村・大助親子。あまり格好良くはない

 実録もまた、事実であり史実だという建前があった。だが、これまたややこしい話になってしまうが、史実でありながらもかなりフィクションで味付けされている。例えば「本朝盛衰記」では真田一族と豊臣の残党たちが琉球を攻め落としている。史実も何もあったものではないが、江戸時代の人々の想像力が遠く琉球にまで広がっていたことは事実である。

 明治時代には「講談速記本」と呼ばれるジャンル(後述)で真田一族は人気を博す。さらに時代が進み、大正時代には講談速記本を小型化した「立川(たつかわ)文庫」などが出版される。そこで真田の家来である忍者・猿飛佐助をはじめとする「真田十勇士」は大活躍を繰り広げ、子供たちのヒーローとなった。

■「明治」という時代

 真田一族の物語はそれ自体非常に魅力的なものだ。ただし明治時代に限ると、人気を呼んだ外的要因も複数あった。

 まず明治の人々は、開国したばかりの日本と海外との差を痛感していた。西洋の文化と比べると、自分たちが生きていた江戸というのは不合理で古臭く、ずいぶんみすぼらしい。江戸は江戸で独自の文化を生み出していたのだが、とにかくそう感じる人々がいた。不合理で古臭い江戸を否定するため、明治の人々はそのひとつ前の安土桃山時代を称賛し始める。つまり「豊臣は最高」というわけで、豊臣に殉じた真田幸村もマジ最高!という理屈である。

 もうひとつ、明治の人々は作りごとを嫌ったという事情がある。今の理屈っぼい小学生の中には「変身ヒーローが変身している時に、どうして怪人たちは黙って見ているのですか」などといった小癪(こしゃく)な質問をする者がいる。明治にはこの程度の精神年齢の人々がわりといた。フィクションはフィクションだからと、割り切って物語を楽しむことができない。

 かのいわゆる小説家輩が破れ机の上でくねり出した空想談などと同一視されては、余は遺憾に思うのである。
(「野宿旅行」鉄脚子、大学館 明治三五[1902]年)

 さらに明治に入って西洋的な合理性を知った人々からすると、江戸時代の「石川五右衛門が九字を切ると、ドロドロ煙が出てガマが登場……」といった物語はバカバカしくて読めなかった。合理性という面では進歩したが、フィクションを楽しむ能力は退化してしまっていたのだ。文化というのは、必ずしも進化し続けるわけはない。ある一面が進歩を遂げると、ある一面は退化してしまう。

 明治の人々が新たに手に入れた価値観から見ると、小説は空想談だから意味がない。今ならさしずめゲームセンターに行く子供は不良になるといった理屈で、小説なんか読んでいるとロクデナシになると言われた時代もあった。

 社会一般に、小説を読み、演劇を見るは、人を堕落せしめるもので、青年にとりては、最も危険なり。(「わが筆」大町桂月、日高有倫堂 明治三八[1905]年)

 それでも変わらないのは、面白い物語を読みたいという情熱だ。そこで登場するのが歴史的な事物を扱った物語で、それがすなわち講談速記本である。

 講談速記本の知名度はそれほど高くはない。だから存在自体を認識してない方も多数いらっしゃることだろう。私も他人との会話でうっかり講談速記本の話題を出してしまい「ハァ?」という顔をされてしまったことが多々ある。そのたびに解説するのは大変なので、かつて講談速記本を解説した文章を書いたことがある。興味のある方はお読みください。

 講談速記本とは

 興味がない方は、次のような存在だと認識しておいていただければ十分だ。

  • ・かつて講談師の口演を速記して収録した講談速記本と呼ばれる出版物があった
  • ・「実録」と同じく建前上は事実のみを扱うジャンルである
  • ・事実を扱う建前ではあるが主人公が空を飛ぶこともある

 この世界で真田一族というキャラクターはどんどん成長し変貌(へんぼう)し、最終的には現代のキャラクターたちに勝るとも劣らない個性を手に入れた。

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個性が強まりすぎて何をやっているんだか分からなくなってしまった猿飛佐助(後方右)と霧隠才蔵(同左)
「猿飛霧隠忍術競:竜驤虎搏」(凝香園、博多成象堂 大正六[1917]年)

 講談には事実を語るというルールがあり、事実とされている実録を題材とすることが多い。その講談を速記したのが講談速記本、つまりこちらも一応事実である。この建前があるために、明治人も罪悪感なしに読めるし書ける。今では忘れ去られているが、ある時代まで講談速記本は娯楽物語の王様だった。真田一族は講談や実録の世界では、もとよりスターだった。講談速記本が広く読まれた明治時代に、人気が出るのは当然である。

 さらに講談速記本は、大阪で出版されることが多かった。今もそうかもしれないが、かつての大阪人は徳川方より豊臣方が好きだった。真田一族の存在が優遇されるのも無理からぬことだ。

 このような理由もあって真田一族は数限りない物語に登場し、「これは事実である」という建前の元に進化していく。ただ、事実から抜け出せないため、進化の速度はかなり遅い。後述するような、真田幸村が仙人となり、猿飛佐助が空を飛ぶような自由な世界に到達するまで50年もかかっている。それほどまでに明治人のフィクション嫌いは根強かった。ある意味では、明治人に絵空事の面白さを思い出してもらうための戦いに真田一族が駆り出された、と表現することもできるだろう。

■恐るべき14歳

 江戸人による実録などの物語を語り直すことで、明治人は講談速記本を作っていく。だが同じ話ばかりでは読者が飽きてしまう。新しい物語が必要だ。そこで創作者たちは、ギリギリ嘘(うそ)にはならないという線を狙ってオリジナルの物語を作り始める。もちろん江戸時代の実録にも嘘が多々あるのだが、明治時代でも次第に虚構は広がっていく。この傾向は明治三〇年あたりを境に強くなる。明治三四(1901)年の「真田幸村」(田辺南鶴、今古堂)で、真田幸村は超人的な活躍をする。

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ブリブリ肥満して青髯を生じている幸村
「真田幸村」(田辺南鶴、今古堂)

 信長の死後、清洲会議で織田家の跡取り問題が議題となる。そこに秀吉は信長の孫である三法師を抱き上げて乗り込み、焼香の場で柴田、佐久間、滝川をののしる。これで秀吉の権力は決定的になり、天下統一につながっていく……といった物語があるのだが、この時に秀吉の参謀だったのが14歳の真田幸村で、清洲会議の全ては幸村の筋書き通りであった――と「真田幸村」には書かれている。そんなわけがないが、講談速記本にはそう書いてあるのだから仕方ない。

 その後秀吉は九州平定のため天正一五(1587)年に出馬する。この時にも幸村は、軍師真田左衛門佐幸村として活躍している。年齢は19歳、「ブリブリ肥満して青髯(ひげ)を生じ、ナカナカ威のある幸村だ」(同書)。そのイラストはごらんの通りである。

 幸村は忍術(しのび)の名人・駒ヶ獄大仁坊、霧隠才蔵らを活用し、秀吉が攻めあぐねていた名城久開山石城を攻め落とした後は連戦連勝、そろそろ頃合いだろうと秀吉の上使として島津義久と直談判し九州を平定してしまう。幸村さえいれば秀吉なんかいらないんじゃないかというほどの活躍ぶりだ。

 歴史に興味がない人にとっては、なんのことやら分からない話であろうが、歴史に詳しい人にとっても何を言ってんだか分からない。ただしこの時期に幸村が何をしていたのか、詳細は不明である。だから幸村が九州で活躍していないとは言い切れない。このように絶対に嘘だと断言することは出来ないという微妙なラインの上で、真田一族の活躍は果てしなく拡張していく。

■幸村、漫遊する

 明治の講談速記本で、幸村は日本全国を漫遊している。漫遊する理由は、真田十勇士のひとりである筧十蔵のあだ討ちに加勢するついでに、諸国の動向を探り大坂の陣に備えるためである。史実では高野山麓(さんろく)九度山に蟄居(ちっきょ)していた期間の出来事であり、こちらもほとんどありえないが、絶対に何があっても嘘だ、とは言い切れないといった物語である。

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旅僧になってしまった幸村
「真田幸村諸国漫遊記」(雪花散人、立川文明堂 大正元[1912]年)

 幸村が諸国を旅するエピソードはすでに江戸時代には存在していたが、ひとつの挿話にしかすぎなかった。明治三六(1903)年にその挿話を膨らませた「真田幸村諸国漫遊記」(玉田玉秀斎・講演、山田酔神・速記、中川玉成堂)という全3巻の長編物語を明治人が作り上げている。この漫遊によって、幸村の神がかった超人っぷりに拍車がかかる。

 父・昌幸の死後、幸村は田真雪村と名を改め修行者の姿で漫遊を始める。その姿は現在の幸村像とは遠く離れている。

 九度山から出発した幸村は、世直しをしたり仲間を増やしたり、徳川方の大名を脅し付けたりしながら諸国を巡る。最終的には九州に至り、加藤清正から豊臣家を託され、その最期をみとる……これが「真田幸村諸国漫遊記」のストーリーだ。徳川方にとっては超人幸村は脅威である。当然ながら道中その命を狙われる。

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関東方は刺客を送るのだが……
「真田幸村諸国漫遊記」(雪花散人)

 幸村本人が危険な旅をしてしまうのはマズいだろと言いたいところだが、実は幸村、知力だけでなく腕力もすごい。現代では幸村というと槍(やり)や地雷火など武器の扱いにたけた優れた軍師といったイメージがある。明治の幸村もそういった能力を持っていたが、同時に並外れた腕力も持ち合わせていた。

 武器を持った徳川方の侍数十人に取り囲まれても、僧侶の幸村は素手で切り抜けることができる。幸村の強さは戦国時代のヒーローの中でも別格で、あの桂市兵衛を投げ飛ばすほどの腕力があった。

  「あの桂市兵衛」と聞いても現代の人々はピンとこないだろう。すでに忘れられたキャラクターではあるが、この市兵衛はものすごい人物、いやむしろ化け物である。身長は四尺、120cmしかないが、肩幅と奥行きも120cm以上あるというサイコロのような生物で、2本の指で鹿の角を粘土のように引きちぎることも、巨大な石を投げ城を崩壊させることもできる。それだけでなく山道を馬より速く走り、両腕を広げれば全速力で走る馬を3頭止めることも可能である。

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戦国最強の可児才蔵にすら勝利する桂市兵衛、さすがにその姿を正確に描くのは無理だったようだ
「天正豪傑 桂市兵衛」(凝香園、博多成象堂 大正一二[1923]年)

 さらに武術の奥義に達しており、桂市兵衛一人で蜂須賀家を相手に戦争したこともあれば、相撲で真田十勇士たちに土を付けたことすらある。身長が低いため組み打ち勝負では相手の腹に頭を付け、グイグイ押せば必ず勝つ。最強の戦国武将の一人として数えられる可児才蔵にすら勝っている。これまた最強の呼び名の高い新納忠元が、家臣を引き連れて討ち取ろうとしたが、こちらも市兵衛の驚異的な身体能力の前に失敗している。

 これほどまでに強く体形がおかしい桂市兵衛を、腕力で投げ飛ばした人物は後藤又兵衛、毛谷村六助、真田幸村しかいない。しかも又兵衛の場合は市兵衛が空腹、六助は神が味方していたという条件付きで投げ飛ばしたのだが、真田幸村は万全の状態の桂市兵衛をなんの苦もなくあしらっている。

 長くなったが、そんな幸村だから漫遊中も無敵で、徳川勢が何をしようが気にも留めない。痴話喧嘩(げんか)から一国の危機まで解決し、恐山では妖怪をも退治している。このまま天下統一すれば良いのではないかというくらいの超人っぷりである。

■幸村、佐渡島で金山奉行を潰す

 「真田幸村諸国漫遊記」は大変バランスが良く、講談速記本における面白い場面がほぼ全て詰め込んであるといっても過言ではない。この物語は複数人の作者が書いているが、後に彼らは立川文庫で物語を大量生産する。つまり猿飛佐助を有名にした人々が「真田幸村諸国漫遊記」を手掛けているというわけだ。

 この作品、全編面白いのだが、圧巻と言えるのはなんといっても佐渡島での戦いである。

 筧十蔵のかたきが金山奉行の悪代官・大久保長安の元で暮らしていると知り、幸村は猿飛佐助と金崎英次郎、そして筧十蔵とともに佐渡島に渡る。船中で地元の侠客(きょうかく)徳蔵の面白い気風にひかれた幸村一行は、佐渡島で徳蔵一家に身を潜め、剣術指南をしながらかたき討ちの機会をうかがっている。

 そんなある日のこと、徳蔵は今日でお別れだと言い、幸村主従に餞別(せんべつ)の金を渡す。実は金山奉行大久保長安の圧政に、島民たちの堪忍袋の緒が切れて一揆を起こすことになってしまったのだ。もちろん徳蔵たちに勝ち目などない。侠客徳蔵は今こそ男を見せるところだと、すでに死ぬ覚悟である。

 この話を聞き幸村は、ひとつには徳蔵への恩義を返すため、もうひとつは大久保長安の元にいるかたきを討ち取ってしまうため、ついでに徳川家康をビビらせるため、金山奉行を壊滅させることにする。

 幸村は寺に村人を集めると、作戦会議を開き島民たちに必勝の軍略を授ける。それは単純なもので、まず陣所を要害堅固の妙見山に定める。そして夜を待ち、幸村と家臣の豪傑たちが島民たちを引き連れて佐渡の奉行所になだれ込む、といったものである。猿飛佐助や金崎英次郎は強い。だから勝てるという単純な戦略だ。ついでに島民たちも大暴れして、奉行所は壊滅する。筧十蔵はかたきを討つついでに、大久保長安の首をあっさり斬ってしまう。

 金山奉行をブッ潰した幸村は、やがて徳川からの援軍が佐渡島にやってくるだろうと予見する。幸村は猟師が持つ火薬を集めると、竹に詰めて「爆裂竹」という兵器を作る。幸村一行は島民たちとともに妙見山から島内四つの港へ徒歩で移動、爆裂竹で徳川侍たちを驚かせる。再び妙見山へ移ると、頂上へと押し寄せる徳川侍たちを猟師で編成した鉄砲部隊と、唐辛子を使った兵器、そして地雷火で一網打尽にしてしまう。

 徳川侍の度肝を抜いた幸村一行は「これは全て自分たちがやったことだ」という手紙を残し佐渡島から脱出する。これで島民が罪をかぶることはないという幸村の気配りである。島民たちは幸村の恩義を忘れぬため妙見山に社を建て、明治の今日も真田大明神として真田幸村をあがめ奉っている……といったストーリーである。

 もちろんこの物語も嘘である。ただし真田幸村は大久保長安より長生きしている。だから真田幸村がやろうと思えば、大久保長安を討ち取ることも可能だ。そんなことはありえないのだが、可能性は皆無ではない。一応は歴史フィクションとして成立している。

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地元の人には愛されているような良い社ではあるが、六文銭はなかった=佐渡島にて

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霧でガメラレーダーも撮れない

 個人的な話になるが、私は佐渡島の戦いが妙に好きで、何度も読むうちにうっかり真田大明神という社が本当に妙見山にあるのではないかと思うようになってしまい、現地へ確認に行ったことがある。もちろん本当に佐渡島の戦いがあったとは思ってはいない。しかし佐渡島は、芝居が盛んな土地柄だ。芝居経由で真田幸村の活躍に感動した島民の一人が、真田大明神というのを作ったのではないかと、勝手な推測をしてしまった。

 現地に行き妙見山に実際に登ってみると、ほどほどの高さで見晴らしも良く、戦いやすそうではある。しかしながら四つの港はそれぞれ離れており、遠い所で40kmほどの距離がある。検証のため私はこの道を小型オートバイで走ってみたが、坂道が多く移動に1時間ほどかかってしまった。この距離を猿飛佐助は2分程度、農民たちですらせいぜい数十分で移動している。もう少し現実味があると思っていたのだが、作者たちは地図を見る程度の調査で、この物語を作ったのだろう。

 なんとか佐渡島の戦いに事実らしいものがないかと思い、佐渡奉行所跡で「大久保長安という悪代官は島民に憎まれていたのですか?」と質問すると係の人に苦い顔をされてしまい、登った妙見山には真田の家紋である六文銭などかけらもなかった。とにかく霧が濃く、山頂にある航空自衛隊の警戒管制レーダー(通称ガメラレーダー)すらよく見えなかった。

 その後も真田大明神がありそうな社をいくつか巡るも、やはり六文銭は見当たらない。カマドウマがウジャウジャしているだけだった。諦めきれず、飲み屋で知りあった女性に頼んで佐渡で一番の郷土史研究家の方に問い合わせまでした。「そんな社は聞いたことがない」という返答で、私は見事に明治の創作者と真田の知略に掛かってしまった。

 個人的な失敗は別にしても、あまりのいい加減さに頭の良い人は大笑いだが、私のように歴史の知識のない人間はうたぐりながらも信じてしまう、といった微妙な線を突いてくるのが明治の娯楽物語の面白いところである。

■幸村、ニックカーターとジゴマ団を奔走させる

 大正時代になっても、真田幸村の人気はまだまだ続く。大正元(1912)年には講談速記本から飛び出して探偵小説に進出。「神出鬼没Z組ジゴマ 名探偵ニックカーター」(藤沢紫浪、自省堂)で幸村はチョイ役で出演し、怪盗ジゴマ率いるZ組とニックカーターを奔走させている。

 ニックカーターはアメリカのパルプマガジン(大衆向け雑誌)で活躍した探偵で、ジゴマ団とはフランスの怪盗小説で活躍した怪人ジゴマを首領とする悪の集団。彼らが日本の知将真田幸村が隠した埋蔵金を探し当てようと奮闘する物語だ。

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表紙、目次、奥付等々、ありとあらゆる所でタイトルに揺れがある。いくらなんでもいい加減すぎであろう
「神出鬼没Z組ジゴマ 名探偵ニックカーター」(藤沢紫浪、自省堂)

 真田幸村は大坂の陣に臨むにあたり、一書を兄・信之の陣に寄せていた。父の真田昌幸が用意した軍用金が慶長小判で3万枚、豊臣の軍用金が9万枚、その他の宝物が人知れぬ場所に隠してある。このままでは豊臣滅亡後、土中に宝は埋もれてしまう。これを世の中に生かして使用するのは長兄の責任である。隠し場所は暗号で示しておくので、宝物蔵を発見したらこの鍵を用いて開けてくれ、と書かれていて、鍵も同封されていた。

 信之は解読を試みるが、幸村の暗号は難しすぎた。信之は謎が解けないまま死亡、次男・信政も数語しか解し得ない。その後も真田家では代々暗号の解読を続け、大正時代に至っても小夜子という娘が仕事を続けていた。この埋蔵金に目を付けたのがジゴマ団で、小夜子を誘拐しようと画策する。

 一方のニックカーターは、かつて父親をジゴマに殺されていた。そのかたきを討つためジゴマを追ううち、とうとう日本にまでやってきてしまう。ジゴマから埋蔵金を守りたい小夜子、復讐(ふくしゅう)を果たしたいニックカーターは手を組み、ジゴマ団と熾烈(しれつ)な戦いを繰り広げる……といった物語だが、それもこれも幸村の暗号が難しすぎたから起きてしまった椿事(ちんじ)である。

 作品の背景を解説しておくと、当時はフランスから輸入された探偵映画「ジゴマ」(1911年)が爆発的にヒットしていた。人気にあやかってジゴマらを勝手に登場させた書籍が粗製乱造され、劇中の手口を模倣した犯罪まで起きていた。この作品もそんな中で発表されたひとつである。

 ただし真田家の埋蔵金を出してきたのは新しい。作者の藤沢紫浪(本名衛彦)は民俗学者で日本伝説学会を設立した人物。だからこそ幸村の埋蔵金をニックカーターやジゴマが追うというアイデアを出せたのかもしれない。

■幸村、ついに天狗となる

 先の作品では埋蔵金経由の出演だが、大正四(1915)年の「天狗流誉の幻術」(春帆楼白鷗・講演[他]、樋口隆文館)では幸村本人が活躍する。

 江戸の物語では琉球に渡った幸村だが、この物語では上州(今の群馬県)高崎で西洋の天狗(てんぐ)から術を教わり、とうとう仙人となってしまう。明治の絶妙な嘘に比べるとこちらは完璧な嘘で、かなり自由な発想で物語が展開していく。

 駿河大納言の徳川忠長、この人の息子に龍千代(たつちよ)がいた。実際にいたんだかどうだか知らないが、この物語には登場しているのだから仕方がない。徳川忠長は徳川家光、春日の局、天海和尚の計略にかかり切腹、そのかたきを討つために息子の龍千代は逃亡し、行き着いたのが高崎。日本アルプスを60日間さまよい、オオワシに襲われているところを山男に助けられる。この山男が山中で天狗と暮らす真田幸村であった。風貌(ふうぼう)は下記イラストのようになっていて、もはや往年の面影などない。

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ある意味、今の幸村キャラより先を行っている
「天狗流誉の幻術」(春帆楼白鷗・他)

 もともと真田幸村は再び旗揚げする目的で山にこもり、そこで出会った西洋の天狗(恐らく西洋の仙人)から天狗流の武術を習い覚えていた。ところが天狗とともに修行をするうち、「天は何時も高く、地は何年たっても低い」と悟りを開いて徳川から興味を失ってしまう。そこに現れたのが龍千代で、家光らに一泡吹かせてくれんという意気込みに感じ入り、天狗流の忍術を教える。

 修行の方法も変わっている。2年間幸村の後に従い狩りをする。狩りといっても天狗流の幸村だから、空を飛び目で鳥を撃ち落とし、おまけに姿まで消すのだから始末が悪い。まだまだ人間の龍千代は仙人の幸村に必死の思いでついていく。

 食べ物は獣肉のみだが、幸村は料理方法まで研究しており、こちらも龍千代に伝授する。弟子なのだから、家事全般は龍千代が担当、そんな暮らしを2年間続けていると、ある日のこと西洋の天狗が死んでしまう。その死骸の眉間(みけん)を一晩にらみ続けろと幸村は言い残し、葬式の準備をするため外に出る。龍千代、困惑しながらも一晩ぶっ続けで天狗の眉間をにらみ続けていると、帰ってきた幸村になぜか横っ面をブン殴られて気絶、幸村は龍千代を山のふもとへ捨ててしまう。もうめちゃくちゃである。

 幸村の常人では理解できない行動により、2年の歳月を無駄にしたと思った龍千代だが、里の人々は龍千代を見ると逃げ惑う。不思議に思った龍千代が川に自分の姿を映すと、身体が異常に大きくなっている。その上、野獣を調理し食べていたため全身血まみれ、さらに原因は不明だが目が鏡のように光り輝いている。そんな人間を見れば、逃げ出すのが当然である。

 失意の龍千代が光り輝く目で人をにらみ付けると、なぜか気絶してしまう。思い切りオオワシをにらむと死んでしまう。ついでに姿を消そうと思えば、消すことまでできてしまう。少しくらいなら空も飛べる。ああこれが天狗流の忍術なのかと、龍千代は思わず知らず地べたにひざまずいて感謝をする……という感じなのだが、幸村が極度の変人すぎて良い人なんだか悪い人なんだか分からない。さすがの幸村も、大正時代にこんな扱いをされるとは思っていなかっただろう。

     ◇     ◇

 というわけで、明治から大正時代にかけてフィクションの中の幸村像がどのように進化していくのかを紹介してきた。明治時代、様子をうかがうかのように少しずつ嘘を広げてきた創作者たちが、大正時代に至ると一気呵成(かせい)の勢いで妄想を繰り広げている。幸村が仙人となるくらいだから、郎党の猿飛佐助が空を飛ぶのも当たり前である。ただし佐助が自在に空を飛べるようになるまでには、創作者たちの計り知れないほどの苦心があった。

「リサイクルされるヒーローたち 物語の中の真田一族(中)」に続く

山下泰平さん

 やました・たいへい 1977年、宮崎県出身。立命館大学政策科学部卒。京都で古本屋を巡り、明治大正の娯楽物語などの研究にいそしむ。2011~13年、スタジオジブリの月刊誌「熱風」に「忘れられた物語――講談速記本の発見」を連載。