戦後70年ビジュアル年表(戦前編):朝日新聞デジタル

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第2章1941~1945年

 長引く中国との戦争は泥沼化し、国際的に孤立を深めた日本は独伊と三国同盟を結び、資源獲得のため東南アジアに進出しようとする機運が高まった。警戒を強めた米国は、経済封鎖で対抗。石油の大部分を米国からの輸入に頼っていた日本は大きな打撃を受け、国内は対米開戦止むなしという論が優勢となってゆく。

(青枠は1943年1月当時の日本軍の勢力範囲)

1941年12月8日太平洋戦争始まる

 1941(昭和16)年12月8日、日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾基地の米太平洋艦隊に奇襲攻撃をしかけた。日本陸軍は英国の植民地マレー半島に上陸、太平洋戦争が始まった。日本側は真珠湾攻撃で航空機29機などを失った。一方、米側は戦艦4隻が沈没、約2400人の死者を出し、大きな打撃を受けた。制海権を握った日本軍は当初、戦争を有利に進めた。

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提供:テレビ朝日映像

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1941年12月8日、日本海軍機動部隊による奇襲攻撃を受けた直後のハワイ・オアフ島の真珠湾のアメリカ主力艦隊。左端は「ネバダ」、次の内側「アリゾナ」は火薬庫が爆発して猛炎に包まれている

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日本海軍機動部隊の奇襲攻撃を受け、燃えるアメリカ軽巡洋艦「ヘレナ」(左)

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米ハワイ空襲を伝える朝日新聞1941年12月9日付朝刊[記事を拡大

1942年6月5~7日ミッドウェー海戦

 太平洋戦争で戦況が悪化する転機となった戦い。1942(昭和17)年6月5~7日、日本海軍の機動部隊は中部太平洋のミッドウェー島周辺で米空母機の攻撃を受け、空母4隻を失い、戦争の主導権が米国側に移った。同年8月から翌43(昭和18)年2月にかけておこなわれた太平洋ソロモン諸島でのガダルカナルの戦いでは、米国に制空・制海権を握られた日本は、補給を断たれ、大きな犠牲を出した。しかし、大本営は「転進」と発表し、撤退の事実を明らかにしなかった。戦況の悪化は国内にも影を落とした。同年10月、文科系の高等教育機関に在籍する学生への徴兵猶予が撤廃され、多くの学生が戦場に向かった。学徒出陣である。

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ミッドウェー海戦で米艦載機の爆撃を受け大破炎上する日本海軍の重巡洋艦、「三隈」=1942年6月6日午後、ミッドウェー沖の太平洋、米海軍機撮影

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雨の中、明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で開かれた出陣学徒壮行会=1943年10月21日

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太平洋戦争の戦場跡。西太平洋ソロモン諸島、ガダルカナルのジャングルのなかで見つかった日本兵の水筒。カービン銃の弾丸跡が生々しい。

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ガダルカナルの日本軍の「転進」を伝える朝日新聞1943年2月10日付朝刊[記事を拡大

1944年7月7日サイパン島玉砕

 太平洋に浮かぶサイパン島は第1次世界大戦後、日本の委任統治領別ウインドウで開きますとなり、日本軍の重要拠点でもあった。米軍は1944(昭和19)年6月15日、約7万人の部隊が上陸し、激しい攻撃を加えた。日本軍の現地司令部は7月6日、「太平洋ノ防波堤トシテ『サイパン島』ニ骨ヲ埋メントス」との玉砕別ウインドウで開きます命令を出し、翌7日、玉砕。日本が確保すべき地域としていた「絶対国防圏別ウインドウで開きます」が崩壊した。民間人と兵士を合わせると約5万人が死亡したとされる。後に米軍は基地を築き、日本本土を空襲する戦闘機を出撃させた。

 

サイパン島タポーチョ山の洞穴陣地入り口に記された守備隊将兵の合い言葉。『我身ヲ以テ太平洋ノ防波堤タラン』とある

1944年10月25日神風特攻隊

 死を覚悟して爆弾を積んだ戦闘機で敵に体当たりする部隊。1944(昭和19)年10月、フィリピン・レイテ沖の海戦で神風特攻隊が編成され、25日、隊員が米艦に体当たりし空母1隻を沈没させた。敵の攻撃を受け、墜落が避けられない場合などに個人の判断で敵にぶつかっていくことはあったが、生きて戻ることを期さない攻撃方法として採用されたのはこのときから。後に陸軍も特攻を始め、陸軍の知覧飛行場(現・鹿児島県南九州市)などから若者が飛び立ち、約5800人が命を落とした。

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フィリピン近海で米艦へ突撃する特攻隊機=1944年ごろ

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出撃を前に、寄せ書きをする特別攻撃隊石腸飛行隊の隊員

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特別攻撃隊の発進を見送る家族たち

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零式艦上機。海軍の主力戦闘機で、日本軍用機中最多の1万機以上が作られ、特攻にも広く使用された。写真はアメリカ戦艦「ミズーリ」に突入する1機

1945年3月9~10日東京大空襲

 1945(昭和20)3月9日深夜に空襲警報が発令された後、10日までに、334機の米軍爆撃機B29が飛来し、大量の爆弾・焼夷(しょうい)弾を東京に落とした。死亡者は8万人前後に達するとされる。それまでの本土の空爆では、軍事関連施設が中心だったが、東京大空襲以降は民間人を含む無差別攻撃となり、名古屋や大阪、神戸などの大都市も次々と被爆。6月以降は地方の中小都市や軍需工場に攻撃対象が移った。本土空襲による死者は、広島・長崎への原爆を除き、少なくとも25万6千人、全焼家屋は221万戸とされる。

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1945年3月10日、B29機による焼夷弾の爆撃を受けた東京・下町

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太平洋戦争末期、かつて近代的なビルが建っていた東京・丸ノ内のビジネス街の焼け跡に、めぼしいものは金庫ひとつ

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1944年11月24日正午頃、B29爆撃機が東京上空に初めて姿を現した。多摩川上空を飛ぶB29機

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空襲で焦土となった東京を視察する昭和天皇

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最初の大阪大空襲の直後、焼け野原になった大阪市西区九条南通付近=1945年3月14日、大阪写真部、平谷一登撮影

1945年6月23日沖縄戦

 1945(昭和20)年4月1日、米軍は沖縄本島中部に上陸し、猛攻撃を展開した。沖縄本島の中部・南部のほとんどが焦土と化し、日本軍を南部に追い詰めた。6月23日に日本軍の組織的な戦闘が終わるまで沖縄県民約14万人、日本軍約11万人が死亡、米兵も約1万3千人が戦死したとされる。スパイ容疑をかけられた住民が日本兵に殺されたり、「集団自決」に追い込まれたりする惨劇が起きた。多くの子供たちも戦争にかり出され、死亡した。米軍を中心とする連合軍は沖縄戦での勝利で、戦局を一段と有利にした。

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読谷(よみたん)飛行場に突っ込み全滅した日本軍の空挺(くうてい)部隊

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沖縄県南部摩文仁付近の掃討戦で、壕(ごう)から出てきた日本兵

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ダブダブの軍服姿で米軍の捕虜になった少年兵。左は18歳、右が20歳とある。米政府が1977年に公表した沖縄戦の未公開写真

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南部の戦闘に巻き込まれ負傷した住民が、具志頭村(現・八重瀬町)にある米軍の診療所で手当てを受ける=1945年6月21日、那覇出版社提供

1945年8月6・9日原爆投下

 日本の敗戦が濃厚となっていた1945(昭和20)年、米軍の戦闘機が8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾別ウインドウで開きますを投下した。公益財団法人放射線影響研究所によると、死者は広島で9万~16万6千人、長崎は6万~8万人とされる。広島・長崎の爆心地付近は一瞬にして焼け野原となり、焼死体があちこちに重なった。甚大な被害を受けた日本の敗戦はさらに決定的なものとなった。もともと小倉や新潟も原爆投下の候補地にあがっていた。人類史に残る惨事となった。8月8日には、ソ連が日本に宣戦を布告し、満州・朝鮮に侵攻した。

(おことわり)本映像には刺激の強い描写が含まれています。閲覧の際はご注意ください。

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提供:テレビ朝日映像

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長崎原爆投下直後に立ち上るきのこ雲(米軍撮影)

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日本勧業銀行広島支店からトラックで郊外の救護所へ運ばれる少年少女たち

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広島市に投下された原子爆弾で被爆した兵士たち。福屋百貨店内に収容されたが、次々に息を引き取り、遺体は近くの空き地で火葬にされた

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被爆直後の広島。手前は広島県産業奨励館(原爆ドーム)

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広島への新型爆弾投下を伝える朝日新聞1945年8月8日付朝刊[記事を拡大

1945年8月15日敗戦

 1945(昭和20)8月14日の御前会議で、日本はポツダム宣言別ウインドウで開きますの受諾を決定した。1931年の満州事変以降続いた戦争状態が終結し、敗戦が決まった。15日正午から昭和天皇が降伏を告げるラジオ放送「玉音放送別ウインドウで開きます」が流され、国民は敗戦を知った。ポツダム宣言は7月26日、米英中の3カ国が発表したもので、日本に無条件降伏を要求。軍国主義の駆逐や戦争犯罪人の処罰などが盛り込まれていた。ソ連は対日宣戦と共にポツダム宣言に参加した。

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ポツダム会談に集まったアトリー英首相、トルーマン米大統領、スターリン・ソ連首相

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今日正午に重大放送、と伝える朝日新聞1945年8月15日付号外

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大阪・曽根崎署前で頭をたれ「玉音放送」を聞く人々

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終戦の詔勅放送を聴くグアム島の日本兵

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終戦の「玉音放送」が流れ、女学生のほおを涙がつたう

ハワイ

真珠湾

米軍が撮影した空襲で焼けた東京・本所一帯=1945年

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米軍が撮影した空襲で焼けた東京・本所一帯=1945年