1章
マッカーサーがやって来た
2章
焼け野原から復興
3章
追及される戦争責任
4章
揺れる政治・外交
5章
空手チョップにわいた
6章
高度成長の足音
7章
高度成長とひずみ
8章
激動の政治、冷戦下の外交
9章
揺れる国内
10章
流行を追って
11章
娯楽とともに
12章
「バブル」と昭和の終わり
13章
失われた20年
14章
グローバル化のうねり
15章
あの日の衝撃
16章
世界で活躍
17章
平成のトレンド
18章
災害列島
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用語解説
1945(昭和20)年9月11日、東条英機元首相は、東京・世田谷の自宅まで連行に来た連合国軍関係者を待たせている間、ピストルで自殺を図ったが失敗した
1945(昭和20)年12月16日、東京都杉並区荻窪の自宅で服毒自殺した近衛文麿・公爵の遺体を検証する米軍兵士。この日は巣鴨拘置所に出頭を命じられていた=GHQ提供
1946(昭和21)年2月11日、フィリピン・マニラの軍事法廷で、米軍捕虜など2万人が倒れた「バターン死の行進」の指揮責任を問われ、本間雅晴中将が銃殺刑の宣告を受けた
1946(昭和21)年5月1日、極東国際軍事裁判で、MPに守られて法廷に向かう被告たち。(先頭から)松岡洋右、岡敬純、東条英機の各被告
1946(昭和21)年5月1日、極東国際軍事裁判の被告控室でくつろぐ東条英機(右)、重光葵の両被告
1946(昭和21)年5月3日、開廷した極東国際軍事裁判。東条英機元首相(前列左から5人目)らA級戦犯の被告28人
1946(昭和21)年5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した
1946(昭和21)年6月4日、休廷していた極東国際軍事裁判が再開され、キーナン首席検事による冒頭陳述が行われた
1947(昭和22)年12月、極東国際軍事裁判で証人台に立った東条英機元首相
1948(昭和23)年3月11日、横浜戦犯裁判が始まってから最大の事件といわれる九大の「生体解剖」合同公判。法廷には29人の全被告が顔をそろえた。1945(昭和20)年5月、熊本・大分県境で撃墜された米陸軍機B29の乗員8名が、九大病院で生体解剖されたとされる事件で、執刀した石山福二郎教授は獄中で自殺、西部軍関係者2名と九大関係者3名が絞首刑。立ち会った医師18名が有罪に
1948(昭和23)年8月27日、「生体解剖」事件を審理した横浜裁判で、絞首刑を宣告された西部軍管区司令官の横山勇中将(中央)=横浜軍事裁判所(現在の横浜地裁)
1948(昭和23)年11月4日、極東国際軍事裁判の判決日を迎え、判決文の朗読が始まった判事席。判決文の朗読は11月4日から12日まで続いた。一番手前がパル判事
1948(昭和23)年11月12日、極東国際軍事裁判でA級戦犯25人に判決が下された。ウェッブ裁判長は東条英機被告ら7人に絞首刑、木戸幸一被告ら16人に終身禁固、東郷茂徳被告に禁固20年、重光葵被告に禁固7年を宣告した
1948(昭和23)年11月12日、極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受ける被告の東条英機元首相
1948(昭和23)年12月23日、極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受け、処刑された7人の棺を乗せて巣鴨拘置所を出るトラック
1948(昭和23)年12月27日、日本人戦犯にクリスマス特赦があり、雪の拘置所の前で待ちわびる家族たち=東京・豊島区の巣鴨拘置所前
1949(昭和24)年2月4日、中国の軍事法廷で有罪判決を受け服役中の戦犯251人と無罪釈放された9人が米軍輸送船で横浜に到着。服役の者は直ちに東京・巣鴨の拘置所に護送された=横浜桟橋
1949(昭和24)年12月28日、家族に迎えられて巣鴨拘置所を出る戦犯釈放者
1950(昭和25)年1月23日、オランダ船で横浜港に着いたジャワ戦犯は大型トラックで巣鴨に護送された。トラック上一番手前で挙手の礼をするのは今村均元大将
1953(昭和28)年12月30日、釈放されたフィリピン関係の「戦犯」52人を乗せて巣鴨プリズンを出るバス
Q5
極東国際軍事裁判で裁かれたA級戦犯7人が処刑された拘置所跡には現在、何があるでしょう?
Q6
極東国際軍事裁判が開かれた東京・市谷の旧陸軍士官学校大講堂は現在の市ケ谷記念館で、裁判は「東京裁判」と言われています。では、ドイツによる戦争犯罪を裁いた国際軍事裁判が開かれた都市はどこでしょうか?