1章
マッカーサーがやって来た
2章
焼け野原から復興
3章
追及される戦争責任
4章
揺れる政治・外交
5章
空手チョップにわいた
6章
高度成長の足音
7章
高度成長とひずみ
8章
激動の政治、冷戦下の外交
9章
揺れる国内
10章
流行を追って
11章
娯楽とともに
12章
「バブル」と昭和の終わり
13章
失われた20年
14章
グローバル化のうねり
15章
あの日の衝撃
16章
世界で活躍
17章
平成のトレンド
18章
災害列島
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1989(平成元)年6月3日超短命内閣
新政権が正式に発足した1989年6月3日朝、宇野宗佑首相は、自宅から衆院第2議員会館の地下にある行きつけの理髪店へ。だが、リクルート事件などの逆風に加え、自らの女性問題も表面化し、首相在任69日間という超短命内閣で終わった=東京都千代田区
1989(平成元)年7月23日たか笑い
7月23日投票の参議院議員選挙で、社会党は改選議席22の2倍を超す46議席の大勝。土井たか子委員長は笑顔が絶えなかった。この選挙で、社会党は女性候補を積極的に擁立し、「マドンナ旋風」を起こした。93年には女性初の衆院議長に。2014年、85歳で死去
記者会見で「山が動いた」と語り、流行語にもなった=東京・三宅坂の党本部
1989(平成元)年8月9日「軽量批判」の中の船出
国会は、衆参両院本会議で首相指名投票を行い、自民党の海部俊樹総裁を首相に指名した。衆院は海部氏を、与野党逆転の参院は社会党の土井たか子委員長を指名、41年ぶりに首相指名の両院協議会が開かれたが決着が付かず、憲法の規定により衆院の指名が優先された
8月9日朝、迎えの車に乗り込む海部総裁=東京都千代田区
1989(平成元)年12月3日政界引退表明
田中角栄元首相が1989年10月に政界引退を表明した。田中氏は12月3日、引退表明後初めて地元の新潟県に入った。本人の強い希望で半年ぶりに実現したお国入り。長女の真紀子氏は1993年に初当選を果たした
支持者から握手を求められる田中元首相と長女真紀子さん。真紀子さんも「40年間ありがとうございました」と頭を下げた
1991(平成3)年4月24日自衛隊、海外に
湾岸戦争後、政府はイラクがペルシャ湾に敷設した機雷を除去するため、海上自衛隊の掃海艇派遣を決めた。1991年4月24日、海部俊樹首相は同湾の航行安全の回復は国際社会の要請などとして派遣に理解を求める「政府声明」を発表。憲法の禁止する海外派兵ではないと強調した。掃海派遣部隊はまず26日、横須賀基地を出港した
ペルシャ湾への掃海艇の派遣を閣議決定し、記者会見する海部俊樹首相=首相官邸
1991(平成3)年5月15日「次」のまま、志半ばに逝く
自民党の安倍晋太郎・元幹事長が5月15日、肝不全のため死去した。67歳だった。当時、海部俊樹首相の「次」をうかがう最有力候補と見られていた。「外交の安倍」を自任して、旧ソ連との関係打開などに意欲を見せた。6月13日には自民党葬が営まれ、約3500人が参列した
6月13日、故安倍晋太郎氏の自民党葬に葬儀委員長として参列した海部俊樹首相=東京・芝公園の増上寺
1991(平成3)年10月27日政界のドンに挨拶
自民党の新総裁に宮沢喜一氏が選ばれた。宮沢氏は最大派閥の竹下派の支持を取り付けて、対立候補の渡辺美智雄氏と三塚博氏を抑えた。竹下派から政策の説明を求められた3氏が小沢一郎会長代行の個人事務所を訪ねるなど、同派の数の力を見せつける形となった
自民党総裁選で当選後、事実上、首相指名権を握っていた竹下派事務所を訪れて、金丸信会長(右)と握手する宮沢喜一氏
1992(平成4)年8月27日ついに辞任
自民党の金丸信副総裁は、東京佐川急便(当時)の渡辺広康元社長から1990年の衆院選の前に5億円の献金を受けたことを認め、責任をとって副総裁と竹下派会長を辞任する意向を明らかにした。略式起訴されたが、罰金20万円での決着に批判が起き、10月には議員を辞職。93年3月に脱税容疑で逮捕された
自民党副総裁辞任を表明した金丸信氏(左)と、声明文を読み上げる佐藤守良・竹下派事務総長。東京佐川急便(当時)の渡辺広康元社長から1990年の総選挙に際し5億円の献金を受けたことを認め、竹下派会長も辞任する意志を明らかにした=自民党本部
1992(平成4)年9月25日PKO
9月25日、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)による国連平和維持活動(PKO)に参加する自衛隊の第1次先遣隊が、プノンペンのポチェントン空港に到着した。写真は、同空港で子どもたちに缶ジュースやお菓子を渡す自衛隊員
10月13日、国連平和維持活動(PKO)協力基づく陸上自衛隊のカンボジア派遣部隊の本隊376人は、盛大な見送りを受け、日航チャーター機に乗り込んだ=愛知県小牧市南外山
1992(平成4)年10月22日竹下派新会長、見切り発車
金丸信前自民党副総裁に代わる後継会長人事をめぐって激しい対立が続いている自民党竹下派の幹部会は10月22日夜、反小沢系の推薦する小渕恵三副会長の後継会長就任を決めた。羽田孜蔵相を推す小沢系はこれに強く反発した。竹下派の抗争は政争に発展する様相になった
10月22日、幹部会後の記者会見で新会長への抱負を語る小渕氏。右は橋本龍太郎副会長=東京都千代田区
1993(平成5)年6月18日自民分裂
社会、公明、民社3党が提出した宮沢喜一内閣不信任決議案は6月18日夜の衆議院本会議で、野党各党と自民党羽田派などの賛成多数で可決された。宮沢内閣は直ちに臨時閣議を開いて衆院の解散を決め、衆院はこの夜10時3分に解散された
宮沢内閣不信任案に賛成票を投じる自民党の羽田孜氏(中央)と渡部恒三氏(その後ろ)。羽田氏の右後方は宮沢喜一首相
1993(平成5)年8月6日非自民政権
1993年7月の衆院選で自民党は過半数を大きく下回った。宮沢喜一首相は退陣を表明。8月6日、日本新党の細川護煕代表が衆参両院本会議での投票の結果、首相に指名された。非自民・非共産各党による細川連立政権が発足し、自民党は55年の結党以来、初めて政権の座を降りた
衆議院本会議での首相指名選挙が、議員点呼の手違いから投票やり直しになり、再投票をする細川護煕・日本新党代表。細川代表は河野洋平・自民党総裁を38票差で破り、第79代首相に指名された。後ろは元社会党委員長の土井たか子議長。土井議長は憲政史上初の女性議長
1993(平成5)年8月10日細川カラー発揮
細川護煕首相は記者会見では襟の議員バッジを外し、ペンを手に質問者を指名するなど、これまでの首相とは違うスタイルを強調した=首相官邸
1993(平成5)年12月16日キングメーカー死去
田中角栄元首相が死去した。75歳だった。政権を去った後も田中派を党内最大派閥とし、数の力を背景に「キングメーカー」として大平、鈴木、中曽根各政権に影響力を持ち、「田中支配」と呼ばれる時代を作った
田中角栄元首相が死去、田中邸前は弔問客や報道関係者でごった返した=東京・目白台
1994(平成6)年4月25日羽田政権
4月8日、細川護煕首相が自らの借入金問題などをめぐり退陣を表明。25日、新生党の羽田孜党首が新首相に指名された。だが、新生党や日本新党が新たな統一会派を結成したことに社会党が反発して連立政権を離脱。羽田政権は少数与党となり、厳しい政権運営を強いられる
4月25日、首相指名の衆院本会義に向かう羽田孜・新生党党首=国会
4月26日、連立政権からの正式離脱を決めた社会党臨時中央執行委員会を終え、党本部に向かう村山富市委員長=国会
1994(平成6)年6月29日村山政権
6月25日、羽田孜首相は内閣総辞職を決めた。連立政権を離脱した社会党との協議が決裂し、内閣不信任決議案が可決される見通しとなったため。6月29日夜の首相指名選挙では自民、社会、新党さきがけ3党が支持した社会党の村山富市委員長が指名された。社会党首相の誕生は1947年以来。社会党はその後、自衛隊を合憲と認めるなど従来の基本政策を大きく転換した
6月29日、衆院本会議の首相指名決選投票で新首相に決まり、拍手にこたえる村山富市・社会党委員長
1995(平成7)年4月9日無党派知事
4月9日投票の統一地方選で、ともにタレント出身の東京都・青島幸男氏、大阪府・横山ノック氏が当選した。都政や府政で与党になるため、国政上の与野党を越えて官僚OBに相乗りした既成政党への批判が明確になり、無党派知事の誕生と呼ばれた
「めざせ 開かれた都政」と抱負を書いた色紙を手にする青島幸男氏。東京都知事に当選した=東京・中野
たくさんの花束を手に喜ぶ横山ノック氏。大阪府知事に当選した=大阪市北区
1995(平成7)年8月15日村山談話
村山富市首相は8月15日の終戦の日、戦後50年を機に村山談話を発表した。歴史認識について「国策を誤り」「植民地支配と侵略」「痛切な反省」「心からのおわび」を明記した。その後の政権も踏襲している
記者会見で「戦後50年」談話を発表する村山富市首相=首相官邸
1996(平成7)年1月5日村山内閣退陣
村山富市首相は、首相官邸で開かれた自民、社会、さきがけの連立与党3党の党首、幹事長・書記長会談で、首相を辞任する意向を伝え、同日午後の臨時閣議で正式に表明。その後の記者会見で「人心一新して諸問題に取り組んで」などと退陣理由を説明した
会見での村山首相=首相官邸
1996(平成8)年1月11日橋本政権
橋本龍太郎自民党総裁が村山首相の後継の首相に指名された。橋本内閣は社会、さきがけ両党首が閣外に出たこともあり、自民党主導の色彩が強まった
社会党代議士会にあいさつに入る橋本龍太郎新首相(左)。右は拍手で迎える前首相の村山富市・委員長と久保亘・書記長(右端)=国会
1996(平成8)年1月29日社会党に幕
社会党は1月19日の党大会で、新たな党名を「社会民主党」(略称・社民党)に決めた。1945年11月に結成された日本社会党の名称が消えた。村山富市委員長は「過去の遺産を食いつぶしているようでは、社会党の未来はない」と協力を求めたが、路線対立もあり、党勢は衰退していく
2月29日、社会党大分県本部の看板を下ろす重野安正社民党大分県連代表と村山富市党首=大分市
1996(平成8)年4月12日普天間返還で合意
橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使は、沖縄米軍基地の整理・統合・縮小問題のうち、最大の懸案だった普天間飛行場(宜野湾市)を「5年ないし7年以内」に日本に全面返還することで合意したと発表した。だが、今も普天間飛行場の移設先は決まっていない
沖縄・普天間飛行場の返還問題について記者会見する橋本龍太郎首相。右はモンデール駐日米大使=首相官邸
1996(平成8)年6月18日住専に怒り爆発
多額の不良債権を抱えて経営難に陥った住宅金融専門会社(住専)の破たん処理に、6850億円の公的資金を投入する住専処理法が成立。バブルにひときわ踊ったノンバンクの尻ぬぐいに税金が投入されたことで、国民の大きな反発を買った
2月2日、「住専に怒る市民の会」は、東京・霞ヶ関の大蔵省前で、「住宅金融専門会社(住専)の不良債権の膨張と公的資金投入の責任は大蔵省にある」と、抗議の豆まきをした=東京・大蔵省前
2月15日、衆院予算委員会は、住宅金融専門会社(住専)処理問題に関連する元官僚、母体行、借り手など参考人7人から意見を聞いた。「元官僚や母体行側は「経営破たんによる預金者の被害を回避できた」などと正当性を主張した。写真は、質問に答える黒沢洋・日本興業銀行頭取=国会
3月3日、むしろ旗などを掲げ「住専処理」に抗議する市民たち
1996(平成8)年9月11日民主党
新党さきがけの菅直人(厚相)、鳩山由紀夫の両氏と新進党を離党した鳩山邦夫氏、社民党の岡崎トミ子氏の4衆院議員は記者会見し、民主党結成を提唱して参加を呼びかけ、基本理念と基本政策を発表した
報道関係者の前で握手する、左から岡崎トミ子、鳩山由紀夫、菅直人、鳩山邦夫の各氏=衆院議員会館
1996(平成8)年10月20日勝利のウィンク
衆院の選挙制度が小選挙区比例代表制にかわって初めての衆院選の投票が行われ、自民党は、単独過半数に届かないものの、選挙前勢力を上回る復調ぶりを示した
当選者が次々と決まり、加藤紘一・幹事長が指先でつくるサインに、ウインクでこたえる橋本龍太郎・自民党総裁=自民党本部
1998(平成10)年7月12日橋本政権、惨敗
5年ぶりに自民単独政権のもとでの国政選挙となった参院選で、自民党は追加公認を含めても改選議席61を大きく下回る45議席にとどまり、惨敗した。橋本龍太郎首相は「経済失政」に対する有権者の厳しい批判を認め、退陣する意向を固めた
時おり厳しい表情を見せながら、テレビ局とのインタビューに答える橋本首相=自民党本部
1998(平成10)年7月30日小渕政権
自民党の小渕恵三総裁を首相とする小渕内閣が発足。「経済再生内閣」と位置付け、蔵相に首相経験者の宮沢喜一氏を据えるなど、実務型の布陣とした。参院本会議では野党が菅直人民主党代表を「首相」に指名し、国会運営の難しさを浮き彫りにした
首相官邸での記念撮影。前列左から3人目が小渕首相、その右が宮沢喜一蔵相、左が野中広務官房長官
1998(平成10)年11月19日「悪魔」と握手
小渕恵三首相(自民党総裁)と自由党の小沢一郎党首が、両党で連立政権を作ることで合意した。政府・自民党は参院で大きく過半数割れしている現状を踏まえ、小渕政権安定のため自由党との連携を探ってきた
連立に向けた合意文書に署名した後、野中官房長官(左)と握手する小沢自由党党首。かつて小沢氏を「悪魔」と呼んだ野中氏だが、この日は「感無量」と感想を述べた=首相官邸
1999(平成11)年8月9日「盗聴法案」採決で乱闘
通信傍受法案などの採決をめぐり、参院法務委員会室でもみ合う与野党の議員ら=国会
1999(平成11)年10月5日自自公政権発足
10月4日、小渕恵三首相(自民党総裁)と自由党の小沢一郎党首、公明党の神崎武法代表は自自両党に公明党を加えた連立政権発足のための合意書に署名した。首相は5日、連立政権を発足させた
自自公連立内閣発足の前日に開かれた3党首会談。左から小沢自由党党首、小渕首相、神崎公明党代表