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〈100人の20世紀〉ウィルバー・ライト 日本に売り込み

 グライダーで空を飛ぶことはそれまでも行われていた。動力で飛び、自由に操縦ができる飛行機をつくりたい――。エジソンやグラハム・ベルら多くの発明家たちが競っていた。しかし「翼の秘密」に最初に気付いたのは、ライト兄弟の兄ウィルバーだった。1903年、初飛行に成功する。たった256メートル。そこからすべてが始まった。この新機械で商売をしようと考える。特許を申請し、ライバルを訴えまくるかたわら、あちこちの国に売り込みを図った。その売り込み先には、日本の陸軍もあった。

 ◇「翼の秘密」偶然に発見

 あて先は「日本国陸軍大臣殿」。タイプで打たれた手紙には「ライト自転車商会、オハイオ州デイトン」のレターヘッドがある。1906年4月14日の日付だ。

 「われわれは時速48キロ以上で人を運ぶフライヤーを提供できる」

 「購入してくれれば関係者1人の訓練をする」

 「政府が指名する技術者に飛行データを提供する」――

 フライヤーは「空飛ぶ機械」だ。エアプレーン(飛行機)という言葉はまだなかった。

 これに対する日本軍部からの回答文書は、ワシントンの議会図書館にあった。桜の花の浮き出し印が入った便せんに英文のペン書きだ。

 「軍事用に適した飛行機械を提供できるとの手紙を拝受しました。しかしわが国では今のところ、そのような機械は必要ありません」

 署名は「陸軍省副官、K・タチバナ」とある。「初公開の文書だと思いますよ」と、議会図書館の研究官、レオナルド・ブルーノさん(54)がいった。

 「K・タチバナ」は、駐米公使館付などを経験し、その後関東軍司令官になった立花小一郎と見られる。当時は陸軍省の高級副官だった。

 ライト兄弟が初飛行に成功すると、話を聞きつけた英陸軍が接触してきた。兄弟は断る。「わが母国が先だ」ということだったようだ。しかし、米軍は相手にもしなかった。

 当時、科学者が多額の政府資金で飛行機の開発に取り組んだが、成果は上がっていなかった。

 「国の代表的な科学者でさえ成功していない。それなのに田舎の若者が実用機を完成させただと?」

 そんな雰囲気だったようだ。兄弟は、開発資金をねらった山師かぺてん師と見られたらしい。

 ライト研究の権威、スミソニアン航空宇宙博物館航空学部門のトム・クラウチ部長(55)はいう。

 「母国から冷たくあしらわれた兄弟は、ドイツやイタリア、日本に目を向けた。当時の日本は日露戦争に勝ち、世界の耳目を引きつけていましたから」

 *

 兄弟がデイトンで自転車屋を始めたのは1892年。ウィルバー25歳、弟オービル21歳だった。販売と修理だけでは満足できず、部品を組み替えて何種類かの自転車をつくり、売り出している。

 自転車は時代の先端を行くモダンな乗り物だった。労働者の年間所得が400ドルちょっとの時代に、兄弟は年に3000ドルもの収入をあげている。自転車屋は大繁盛だった。

 しかし自転車屋が忙しいのは春から初夏まで。ひまな時期に仕事場で始めたのが飛行機づくりだった。

 父ミルトンはプロテスタント教会の牧師だった。ウィルバーは三男、オービルは五男だ。

 兄弟が子供のころ、父がヘリコプターのおもちゃを買ってくれた。竹とゴムなどでできた竹トンボみたいなものだ。兄弟は夢中になり、分解したり、それをモデルにもっと大きなものをつくったりしている。

 2人にショックを与えたのは96年、グライダーで2000回も飛んだドイツの滑空王リリエンタールの墜落死だった。

 当時のグライダーには操縦装置がなく、浮かび上がってまっすぐ飛ぶだけだった。墜落は、強風でバランスを崩して失速したのが原因だった。ウィルバーが弟に持ちかけた。

 「飛行機をつくってみよう。おもしろそうだ」

 失敗例を分析した兄弟は「操縦」の可能性に研究をしぼる。自分の意思で旋回ができれば、墜落せずに飛べる。鳥は旋回するとき、左右の翼の先端を逆方向にひねっている。左右の翼端が逆に曲がることが、安定した旋回の重大な要素なのだ。

 ある日ウィルバーは、店先で何げなく、チューブの細長い空き箱をひねる。すると箱の両端がまったく別の方向にねじれることに気付いた。「翼の秘密」はここにあった。

 ウィルバーが見つけた翼のたわみは、補助翼の原理につながる。たわみと尾翼の方向だを連動させることで、失速せずに飛行機を操縦することができる。これまでだれも気付かない発見だった。

 兄弟は箱形のタコを飛ばし、翼のたわみの実験を始める。効果はたちまち実証された。次には人間が乗れる大きさのグライダーで挑戦した。場所はノースカロライナ州キティホークの海岸を選んだ。墜落しても、砂浜ならショックは小さい。

 ウィルバーは父に手紙を書いた。

 「利益より楽しみのための研究です。しかし、名声と富を得るチャンスも少しはあると思います」

 *

 キティホークは大西洋に面した寒村で、郵便局と海難救護所、わずかな民家があるぐらいだった。郵便局長と救護所員の好意で、砂浜にテントを張っての実験が始まった。「悪魔殺しの丘」と呼ばれる30メートルほどの砂山から、兄弟は飛んだ。

 100回ものテストを繰り返す。思うように飛ばなかった。しかし兄弟はくじけない。デイトンに戻り、計算をやり直し、風洞実験を進める。

 風洞も手製だった。長さ180センチの木製の筒で、端に強力な送風機を付けたものだ。その中に200通りもの形の翼を置いて試した。

 1000回にわたるテストが行われた。3年目の夏、改良を加えたグライダーはスムーズに飛んだ。

 次はエンジンとプロペラだ。

 エンジンを設計し、自動車のエンジンメーカーに注文する。しかし、頼んだ12のメーカーすべてに断られた。デトロイトのフォード博物館研究員スコット・デニスさん(45)はいう。

 「空を飛ぶなんてばかげたことを考える人間とはかかわりたくない。そういうことだったようですね」

 自分たちでつくるしかない。自転車職人と一緒に1カ月半かかり、4気筒12馬力のエンジンを何とかつくり上げた。製作の途中で爆発事故まで起こしている。

 本格的なプロペラは前例がなかった。船のスクリューを参考にしたが、役にも立たない。試作を繰り返す。本業はそっちのけになった。

 2人の飛行機が空を飛んだのは1903年12月17日。挑戦を始めてから4年目だった。

 機体は全長6.4メートル、翼長12.3メートル、重さ274キロ。機体はハリモミなどの木で、複葉の主翼にはモスリンが張られていた。

 乗る順番はコインで決め、当日はオービルの番だった。機体に腹ばいになる。エンジンがうなり、ガソリンが飛び散る。左手で昇降だをにぎり、右手にストップウオッチ。

 4回飛んだ。1回目は12秒、36メートル。4回目はウィルバーで59秒、256メートルだった。

 兄弟は飛行の成功を新聞社に連絡する。しかし、扱いはさんざんだった。ある社は「59秒? 何だ、それだけか」とボツにした。マスコミには、その59秒の値打ちが分からなかった。

 翌年から、デイトン郊外の牧場で実用開発に入る。

 性能は向上した。2年後には滞空時間39分23秒、距離38.96キロを記録している。日本に売り込みを図ったのはこの後だった。

 初飛行から5年がたった1908年、兄弟の名前はフランスで有名になった。ルマンで公開飛行をしたのである。

 ウィルバーが客を乗せて操縦した。100回以上飛び、約60人を乗せている。滞空時間2時間20分、125キロを飛ぶ記録もうち立てた。ミシュランが出した賞金2万フランを手に入れる。決定的だった。

 念願の特許が認められたのは1906年5月。米陸軍との契約が2年後に成立する。当時の金で2万5000ドルだった。フランスの企業とも契約した。

 *

 機械いじりが好きな弟と商売っ気のある兄は、いいコンビだった。ウィルバーは、「オービルと私は幼いときからともに暮らし、ともに遊び、ともに考えた」と書いている。

 特許にこだわり、ライバルを次々に訴えた。訴訟は世界中に及んだ。「彼らは裁判で有名になったのだ」という人までいた。2人とも独身を通した。理由を聞かれたウィルバーは「飛行機と女性は両立しないから」と答えている。

 初飛行から9年後の12年、ウィルバーは45歳で死んだ。直接の死因は腸チフスだったが、本当は訴訟疲れだったともいわれる。

 ウィルバーの死後、オービルはあっさりと会社を手放した。クラウチ部長は「もっと違った機械いじりをしたかったのでしょう」という。

 オービルはカナダのジョージア湾に別荘を買い、おいやめいたちと釣りを楽しんで暮らした。その間、アイロンを改造してトースターをつくったりしている。次兄の孫にあたるウィルキンソンさん(77)はいう。

 「そのトースターで焼いたパンのうまかったこと。壊れたおもちゃを直してもらったこともある。前よりずっといいものになっていたよ」

 オービルは48年、76年の生涯を終えている。100万ドルの遺産を残した。葬儀の日、米軍のジェット戦闘機4機が上空を編隊飛行した。

 ■兵器として飛躍的に発展

 ギリシャ神話にイカロスの話がある。羽とろうでできた翼をつけて大空を飛ぶが、太陽に近づきすぎたためにろうがとけ、イカロスは墜落して死んでしまう。

 空を飛ぶことはそのころから人類の夢だった。

 レオナルド・ダビンチは約500年前、鳥をまねた羽ばたき機やヘリコプターを考えた。仏モンゴルフィエ兄弟が飛ばした熱気球は、飛行船へと発展する。

 固定翼という今日の飛行機の原型を考えたのは英国のジョージ・ケイリーだった。独リリエンタールは、主翼と尾翼のあるグライダーで実験を重ねている。

 そうした歴史を踏まえ、安定操縦の考えを取り入れ、動力装置をつけて飛んだのがライト兄弟だった。

 ライトが売り込み先として軍に目を付けたように、飛行機は第1次大戦の後半から、戦争の道具として飛躍的に発展していく。

 ○この人その時

1867 インディアナ州で生まれる

  71 弟オービルが生まれる

  92 ライト自転車商会を設立

1900 キティホークでグライダー実験

  03 初飛行に成功

 日露戦争(04)

  06 日独伊などに売り込み

  09 飛行機会社のライト社を設立

  12 腸チフスで死亡、45歳

 第1次大戦始まる(14)

 第2次大戦始まる(39)

  48 オービル死亡、76歳

○もっと知りたい人は

 ●ウィルバーとオービルの生涯については

 「ライト兄弟伝」(斎藤潔/『ライト兄弟伝』刊行会)

 「ライト兄弟 空を飛ぶ夢にかけた男たち」(ラッセル・フリードマン/偕成社)

 「ライト兄弟」(富塚清/講談社)★

 「ライト兄弟に始まる」(稲垣足穂/徳間書店)★

 ●航空の歴史などについては

 「わが心のキティホーク」(木村秀政/平凡社)★

 「発想の航空史」(佐貫亦男/朝日新聞社)

 「大空にいどんだ人々」(市場泰男/さ・え・ら書房)

 「航空事始 不忍池滑空記」(村岡正明/東京書籍)★

 ★は図書館などでお調べ下さい。  (99/06/20)







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