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傾きかけた冬の日差しを受け、白い羽布(はふ)が張られた複葉が九重連山の山並みをバックにくっきりと浮かび上がる。大分県・久住高原。グライダー滑空場の格納庫からゆっくりと姿を現した優美な機体は、まるで繊細な工芸品のようだ。1903年12月17日に初の動力飛行に成功した「ライト・フライヤー号」を、当時とほぼ同じ材料で忠実に再現した復元機だ。来年、初飛行に挑む。
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500万円以上を投じ、復元機を1年半がかりで製作したのは、福岡市のグライダー団体「西日本航空協会」会長の前田建(たてし)さん(63)と、その仲間たちだ。
「来年はライト兄弟の初飛行から100年だよなぁ」「復元機を作って、日本でメモリアルフライトできたらいいね」
昨年5月、前田さんと仲間との何げない会話がきっかけだった。
手始めに、復元機が展示してある米国のスミソニアン博物館から、フライヤー号の図面を取り寄せた。費用は1枚4ドル20セント。計50枚のうち14枚はエンジンの設計図だ。
インチをセンチに、ポンドをグラムに直すなど約3カ月かけて翻訳・分析。材料の調達と組み立て計画を練った。エンジンだけは、復元に数百万円かかるため断念したが、それ以外は「当時」にこだわった。
●複雑さ想像以上
羽根や機体の骨格は木材。幅1センチの中に1ミリ以内の木目が詰まっている「スプルース」と呼ばれるアメリカヒノキを米国から厳選した。羽根には白い木綿の羽布を張り、ビスにはマイナスのねじ山のものを米国から取り寄せた。
翼の製作を始めたのは昨年9月。翼を構成するのはリブ(小骨)、スパー(桁(けた))など。リブは約80本必要だが、作業は上下2本の部材をカーブをつけて一体化するといった内容で、毎日3本作るのがやっとだった。
「図面通りに作っているつもりでも微妙にずれちゃうんですよね。その都度修正し、作り直しですよ」。前田さんは振り返る。
翼の支柱と桁をとめる金具やプロペラも手作り。鉄板や鉄の丸棒を七輪の炭火で焼き、一つひとつ、型に合わせてたたいて成形したり、3層からなる木材をねじりをつけて削り出したりした。
羽布の縫製作業にはスタッフの妻や高校の家庭科の教師などの力を借りた。ここでも、1910年代に作られた米国製の足踏みミシンを探し出して使うほど、「当時」にこだわった。
11月上旬、翼やプロペラなどのパーツを3日間かけて組み立て、全長6.4メートル、全幅12.3メートルの復元機が完成した。
前田さんは言う。「とにかく想像以上に複雑でややこしい構造。だれも作ったことのないものを100年前に2人だけで設計し組み立て、人間が空を飛べることを実証したんですから、すごい兄弟です」
●海の男から転身
前田さんの父・建一さんは戦前から名が知られたグライダー製作者。福岡に工場を持っていた。その仕事を手伝ううち、自然とグライダー製作のノウハウも身に付いた。
大学卒業後は、海洋土木会社に入社。東京や大阪、茨城などで、レジャー施設の計画や人工海浜の研究に携わった。ヨット歴25年、カヌー歴も10年。10人乗りのクルーザーで離島へ渡り、手作りのカヌーで波をかき分けるのが好きだった。
「海の男」の転機は85年、福岡への転勤だった。70年に亡くなった父建一さんが残した工場は廃屋同然で、3機のグライダーが朽ち果てていた。
建一さんは40年近く前、地元の高校生を指導して4年がかりで、人力飛行機を作った。工場で生徒らと寝食をともにして製作に没頭する父の姿に「執念を感じた」。その父の口癖が思い浮かんだ。「必要の最小限で、可能性の最大限を追求する。それが飛行機だ」
古い工場を閉じ、一回り小さな工房と自宅を新築した。
次第に、空の仲間が集まるようになった。建一さんが所属していた休眠状態の「西日本航空協会」を復活させた。99年には会社をやめて、「前田航研」を設立。本腰を入れてグライダー作りを始めた。「やっぱり血筋ですかね。自分は人一倍の飛行機好きとは思わないんですが……」
復元機は来年、初飛行に挑む。前田さんは「夏には」という。実現には越えなければならない問題がある。例えば、オリジナルにはない車輪の装着。日本の法律では自力で地上走行する必要があり、機体の強度やバランスを考えなければならない。当時より格段に性能がいい日本製小型エンジンとの調整もそうだ。
「パイオニアの人が苦労して苦労してたどりつく『初めて』に、文化と呼ばれるものの根っこがあると思う。その果実をいまの私たちは享受していることを、復元機作りを通じて実感しながら、日本の人たちにも伝えていきたいですね」
前田さんはそう言って笑った。
(03/12/23)
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