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3〈進駐軍接収時代〉 野球復活を告げた早慶戦
2006年11月08日
神宮球場が「ステートサイドパーク」と呼ばれた時代がある。「米国本土球場」とでも訳せばいいだろうか。
 45年から52年3月まで進駐軍に接収され、「ステートサイドパーク」と呼ばれていた時代のスコアボード=明治神宮外苑提供
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 球場外周部は独特のデザインのアーチ形柱が続く。現在の13番入り口付近に焼夷弾は落ちた
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1945年9月、終戦1カ月後に、明治神宮外苑一帯は進駐軍に接収された。進駐軍と家族の娯楽施設になった。神宮球場のスコアボード下には「STATESIDE PARK」の文字。日曜日となれば、家族とバーベキューをしながら、野球やフットボールに興じる米国人の姿があった。
毎日新聞アマチュア野球担当記者時代も含め、半世紀以上、東京六大学野球を見続ける慶応大学OBの松尾俊治さん(82)は、ステートサイドパーク時代の忘れられない試合がある。終戦直後の45年11月18日だった。
その年5月の東京大空襲で、神宮球場の左翼ポールに近い内野席に、数百個の焼夷弾(しょういだん)が落ちた。球場内に格納されていた配給用の薪や衣料品に引火し、一帯は火に覆われた。バックネット裏や外野スタンドの一部が焼失を免れたが、外形をとどめるのがやっとだった。神宮ならではの特徴とされた古代円形競技場コロッセオに似た、球場外周のアーチ形の柱も、崩れ落ちた。
そして、終戦。関東、関西の大学野球の中心選手たち100人以上が命を失った。戦地から戻った部員たちも全国に散り散りになった。そんな早稲田、慶応の現役、OB野球部員たちに「オール早慶戦あり」の知らせが届く。
早、慶のOB、現役が一緒になってのオール早慶戦。10月には六大学OBによる紅白戦が始まっており、機運は盛り上がっていた。占領政策で武道は抑制されても、アメリカ文化と見なされた野球は、むしろ、奨励された。埼玉・熊谷の陸軍飛行学校で終戦を迎えた松尾さんはそのころ、東京に戻り、復学していた。
11月18日。試合当日、神宮上空は澄み渡った秋空だった。約50人の選手がステートサイドパークに集まった。皆、ベンチで着替えた。ユニホームを抱きしめる人もいた。
早大OBの若原正蔵投手(故人)は、スパイクでなく軍靴を履いて先発マウンドに上がった。「制球はいいと聞いていたが、投げにくそうだった。練習もしてなかったのでしょう」と松尾さん。その第一投を慶応ベンチから見守った。
試合は延長11回、慶大が6―3で勝った。当時の新聞は4万5千人の観衆と報じ、NHKラジオで全国に放送された。戦前からプロ野球以上の人気を誇ってきた両校のぶつかり合い。これを機に大学野球、プロ野球、都市対抗野球が次々と復活していく。「まさに野球復興の鐘を鳴らした一戦。ラジオ放送で、敗戦に打ちひしがれていた国民をも元気づけた」と、松尾さんはいう。
サンフランシスコ講和条約が締結されると、ステートサイドパークは52年3月、明治神宮に返還され、神宮球場の名に戻る。
球場創設時からあるアーチ形の柱も46年6月の改修で元の姿に戻り、62年にはナイター照明がついた。67年にも観客席を増設するなど、日本の経済復興の歩みとともに、神宮球場の改修は進み、現在の姿となった。
今年の秋のリーグ戦で早大の優勝が決まった10月15日も、松尾さんはやはり神宮にいた。「昔の面影が残る、あのれんが色のアーチがいいよね」
あのオール早慶戦から61年がたった。
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