2008年5月20日
毎月の給与からユニセフに寄付。「恥ずかしいけど、社会人になって始めました。水泳ができる環境にいられることを感謝してるし、少しでも役に立ちたいと思って」=福留庸友撮影
もう「未完の大器」なんて呼ばせません。自分自身と向き合った4年間は大きな糧になり、五輪切符を初めて手に入れました。
◇
――五輪選考会の日本選手権100メートル背泳ぎでは日本新で優勝。五輪に出るんだという気持ちが燃え上がってきましたか。
決まった直後はそんなになかったんですけど、その後の代表合宿に入ってから出るんだなぁという感じはしてきました。
――01年世界選手権(福岡)が初の大舞台でした。あのときは高校2年生でしたよね。
そうですね。
――あれから世界選手権には何度も出て、06年パンパシフィック選手権では金メダル。今まで五輪に出ていなかったのが不思議なぐらい。
ちょっと甘く考えていたかなという部分がありました。何度も日本代表に入っていたし、決勝には絶対に残っていたし。あのときの五輪選考会では自分の弱さが出てしまいましたね。
――あのときって200メートルで3位(五輪代表は2人まで)だった4年前の日本選手権?
選考会から逃げたいと思っていましたから。すごい重圧がかかる試合になることは分かっていたのに、それを覚悟できずにいたんです。泳ぎ終えた瞬間、そんな自分が嫌になりました。
――サブプールで涙を流している姿は忘れられません。気持ちを切り替えるのは大変だったんじゃないかなって。
あのとき、自分が何をしているのか分からなかったですね。自分が嫌になって悲しかったけど、やめたいとは考えなかった。すべてを失った状態だから何も怖くないし、誰も期待していないって思うようにして。
●何度も弱気に
――これまで心が折れそうになったことってないんですか。
選考会で負けても思わなかったのに、この4年間では何回もやめたいと思いましたね。「ここでやめた方が楽なのかな」とか。人間だから、逃げたくなったりもするんです。「また(五輪に)行けなかったらどうしよう」って不安にもなりました。
――そんな気持ちを、どうやって打ち消そうと。
(昨年8月の)世界競泳の後にも、何かモヤモヤしてたんです。すごく落ち込んで、すべてが駄目だと思うぐらいに。こんな気持ちのまま水泳をやっていちゃ駄目だと思って、亜衣ちゃんに相談したんです。
――亜衣ちゃんって(アテネ五輪女子800メートル自由形金メダルの)柴田さん?
はい。「私も五輪に出るまでは何も分からなかったけれど、出たら答えが見つかるから。そのために私たちは今やっているんじゃん」って言ってくれて。つらいことや苦しいこともあるけど、それは自分の人生で最高なことに向かってやっているんだと思えるようになりました。
――鈴木陽二コーチからは、支えになるような言葉をかけてもらったことはありますか。
「人はだませても自分はだませない」って言われて、グサッときました。頑張っているふりは誰にでも出来ると。きつい練習でも笑顔で終わりたいし、レースでも笑顔で帰ってきたい。自分に恥ずかしくない泳ぎをしたいと思うようになりました。
――この4年間で新たに取り組んだことは何かあります?
日記を書き始めました。ほとんど練習のことですけど、疲れていると「疲れた」とかしか書いてないです。書くのが面倒くさいと思ってしまって。
――読み返したりはするの。
あまりないですね。昔の日記が何冊ぐらいになっているかも分からないし、どこにあるかも分からないですから。自分の気持ちを日々、整理する道具として書いています。
――どうして?
読み返すときって練習ができていないことが多いんです。調子がいいときの自分と、今の自分を比べるのが嫌なんですよ。今の自分が1番でありたいという変な思いがあって。
――それって本当に負けず嫌いですよね。
たぶん、そうですよね。
●3と4は嫌い
――あと3カ月で五輪です。
3……。3と4という数字はずっと嫌いなんです。日本選手権でも準決勝は3番通過だったんですけど、「4年間やってきて、また3番だったら意味がない」って考えてしまいましたし。今でも3と4は嫌いです。
――「また3」って言葉が、すごく重いですね……。最後に五輪の目標を教えて下さい。
最高のパフォーマンスができるよう、悔いを残さず本当の笑顔を出せるようにしたいです。
*
いとう・はなえ 埼玉県出身。東京成徳大高―日大からセントラルスポーツへ。長い手足を生かした泳ぎで才能を発揮し、世界選手権には01年から4大会連続出場。昨年は100メートルと200メートルで5位に入った。4月の日本選手権では2位に入った200メートルでも五輪代表。173.5センチ、23歳。

〈有美のここだけの話〉
実は、私のこれまでの伊藤選手のイメージは、戦いに敗れ、傷つき、サブプールで必死に涙をこらえる姿にありました。
手足が驚くほど長く、スラリとした抜群のスタイル。伊藤選手の周りにはいつも「素晴らしい才能」「豊かな素材」といった言葉が飛び交っていました。しかし、当の本人はそれらの言葉を遮断するかのように、繊細な面持ちで、あくまで自分のペース、自分の世界観を貫こうとしているように見えました。
これまでの彼女は、大切な勝負どころでなかなか勝てず、行き場のない涙をたくさん流してきました。しかし、何とかここまで気持ちを?いで、4月の日本選手権で念願の五輪出場権を得ました。
「このレースで負けたら自分が生きている意味が無いんだ」と思うほどに自分を追い込み、3位でも2位でもない、あくまでも「勝つ」ことにこだわった戦い。鈴木コーチからも「お前には死ぬ気で戦う気持ちがあるのか」と問われさらにエンジンがかかり、輝くか死ぬかのギリギリの崖っぷちで勝負に挑みました。そこまで自分を追い込んだのは初めてだったといいます。
ここ何年間、仲間が五輪という舞台で輝く姿を見て、なにくそ……の思いで続けてきた苦しい練習。もがいた時間。それらすべてがぎっしりつまった足跡は、彼女のこれまでの人生の多くを占め、支配してきただけだけに、あの日本選手権は、「勝てなくては、自分に生きている意味はない」というところまで自分を追い込む結論に達したのだろうと思われます。
水泳だけでなく、自分が生きる意味を確かめるためにも、すべてをかけて挑んだレース。腹をくくった伊藤選手は、圧倒的な強さを誇っていました。優勝した100Mのレースを振り返って、伊藤選手はこんな風に話してくれました。
「前半の50M、とにかく早くターンしたくて、ウズウズしてたまらなかったんです。これはイケるぞって。ターンしてスパートをかけたらこっちのもんだって。早く爆発したい!って抑えるのが大変でした。攻めたい、攻めたい……。そんな気持ちになったのは久しぶりだったんです」
やっと辿り着いた、その感触。こちらまで、“攻めのレース”を勝ち取ったワクワク感、興奮が伝わってきました。そして、そんな伊藤選手は、私がこれまで見たことのない自信と落ち着きに満ちていました。
伊藤選手の姿を見ていると、人は、本当に涙の数だけ強くなれるのだなと、何かほっとするような、うれしい気持ちになれました。
元テレビ朝日アナウンサー。主にスポーツを担当し、01年世界水泳福岡大会や02年ソルトレーク冬季五輪などを取材。高校時代は陸上の走り幅跳び選手で、実際にシンクロやスケルトンにも挑戦する体当たりのリポートで人気を集めた。05年に退社。夫はタレントの内村光良さん。旧姓徳永。75年金沢市生まれ。