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故宿沢広朗氏、理論と準備の人 W杯唯一の勝利挙げる

2006年06月18日12時18分

 17日に亡くなった元ラグビー日本代表監督の宿沢広朗さんは、理論と準備の人だった。

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89年5月、スコットランドに勝って胴上げされる宿沢広朗監督

 選手としては身長160センチ余り。当時のSHとしては、特に小柄だったわけではないが、肉体的に恵まれていたわけでもない。

 防御網のスキをつくサイド攻撃の鋭さ。グラウンドの大半を覆うようなカバー守備の広さ。その持ち味は分析力と相手の一歩先を走る判断の速さに支えられていた。

 ラグビーとは縁のない銀行に就職したこともあり、国代表同士の試合に出場した証しのキャップは3個にとどまる。持てる才能はむしろ、指導者となって発揮された。

 1989年、監督としてスコットランドに勝った。国際ラグビーボードの中核8協会を構成するチームへの勝利は初めて。「みなさん、お約束通り、勝ちました」。試合後の第一声と得意満面の笑みが印象的だった。

 87年にW杯が始まり、世界のラグビーが動き始めていた。大きな変化から取り残されかけた中での就任要請を受けた。

 為替ディーラーとして長期のロンドン駐在から帰国したばかり。監督経験もなかったが、勝利を公約し、実現させた。

 準備と理詰めの行動がその秘密だった。「頑張れと言っても具体的、理論的にどう頑張るのか、選手に納得させられなければ意味はない」

 相手の分析は詳細を極め、最も効果的な作戦を選んで選手全員の理解と実行を求める。肉体的な劣勢を意識した上で、機動力と展開力を生かす日本らしさにこだわった。徹底ぶりが新鮮だった。

 第2回W杯のジンバブエ戦は、今も日本のW杯唯一の勝利だ。

 2000年に強化委員長を引き受けた時には、トップリーグ創設の旗を振り、代表選手の活動期間中に休業補償するオープン化にも手をつけた。常に改革の先頭に立ってきたといっていい。

 銀行員としても一線に立ち続け、二つの分野を自在に泳いだエネルギーには驚くしかない。

 日本のラグビーは2011年のW杯招致につまずき、国内の人気不振に悩む。失った存在の大きさをこれから実感するのだろう。

◆91年W杯で日本代表主将を務めた平尾誠二さんの話

 とにかく驚いています。大阪から東京に戻って仕事の面で精力的に活躍されていると聞き、日本ラグビー発展のためにも、また尽力していただきたいと期待していた矢先でした。

◆91年W杯で日本協会強化委員長だった白井善三郎さんの話

 突然のことで信じられない。宿沢君はロンドンに長く駐在して国際感覚があり、情報収集にもたけていたことから、代表監督に起用した。銀行マンとして仕事との両立が難しい中で結果を出してくれた。

◆早大時代に宿沢氏を指導した日比野弘・日本ラグビー協会名誉会長の話

 彼が早大2年の頃、私が監督を務めて日本一になることができたが、クレバーで、熱くて、よく「日比野さんを男にしますよ」と言ってくれたことが忘れられない。これからの日本ラグビーを託したい人材だった。かけがえのない人を失い、言葉もない。

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