【動画】為末大さんインタビュー |
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陸上競技場の1周は400メートル。トラック上に置かれた10台のハードルを跳び越え、ゴールまでの最速を競うのが「400メートル障害」だ。この種目の日本記録保持者、為末大さん(34)が6月、ロンドン五輪の出場権をかけたレースに敗れ、引退した。4度目になるはずだったスポーツの祭典は逃したが、2度の世界陸上で銅メダルを獲得した、華やかな戦績は揺るがない。ツイッターでも思いを発信し、世間を引きつけるランナーはいま、何を思うのか。(和気真也)
■まさかの転倒、最下位で完走
6月8日。ラストランとなった大阪・長居陸上競技場での日本選手権は、ロンドン五輪の代表選考会を兼ねていた。
静寂のスターティングポジション。そして号砲。精密に研ぎ澄まされた肉体がはじき出されるように飛び出す。
5秒後には1台目を越えて――。だが、あの日だけは違った。顔を上げた。あるはずのハードルが、遠い。とっさに、いつもとは逆の右足を振り上げた。衝突。体が前に投げ出され、受け身を取りながらレーンを前転した。
まさかの事態。「終わったな」。最初に頭に浮かんだ一言。次いで「ちゃんとしなくちゃ」。何に「ちゃんと」かは、はっきりしない。「でも、ちゃんと終わらせないと、次にいけない」。身を起こして、走り続けた。最下位でゴールし、スタンドから拍手が沸いた。タイム57秒64、予選敗退。競技場に2回、礼をしてトラックを出た。直後の会見はすっきりした表情で、競技人生の幕を締めくくった。
■効かなかった「決め技」
ハードルの選手たちは通常、10台のそれぞれに役割を持たせ、勝利へのシナリオを組み立てる。為末さんが大事にしてきたのは1台目。そこを一番早く駆け抜けた選手が勝つという信念に基づく。だからレースにかける労力の半分を割き、「自動化できていた」と振り返る。
台頭する後輩にかなわない。それでも大会2位なら五輪への挑戦権は得られるだろう。1台目でトップに立ち、8台目で勝負をかける。想定タイム49秒2でゴール。だが、そのシナリオは、もろくも崩れ去った。
この数日前、「今期限りの引退」を表明していた。実は昨秋から心に決めていた。反発力の強いトラックの上を跳びながら走るハードル競技は、体への負担が大きい。長いキャリアで、体は悲鳴を上げていた。
ただ、「今期」は五輪後の想定だった。だから喪失感はあった。それでも1台目で失敗し、かえってさっぱりした。「自分の決め技が効かなかった。ということは、もうダメなんだなと」
■「侍ハードラー」世界に轟く
広島で生まれ育った為末さんは8歳の時、姉の影響を受け、地元のクラブで陸上を始めた。才能はすぐに異彩を放つ。中学時代、100mと200mで主要な大会に優勝。200mでは当時の中学生記録を打ち立てた。
高校に入り、爆発的なスピードに成長途中の体がついていかず、肉離れを繰り返した。スピードを抑えられる400mに種目を移したのは、恩師に勧められたから。そうして臨んだ高校3年目、インターハイと国体で優勝。さらに400mHに挑むと、49秒09という、驚異的な高校記録をたたき出した。
2000年のシドニー五輪後、01年の世界陸上エドモントン大会で47秒89の日本新を出して銅メダルを獲得。トラック種目で日本男子初のメダリストになった。長身の外国人選手に競り勝った身長170センチの日本人の名は、いまも世界に轟(とどろ)く。
03年、25歳で前年に入社した大阪ガスを退職し、賞金レースで食べるプロに転向した。当時、ドミニカのフェリックス・サンチェスなど海外を転々としながら身一つで稼ぐプロの強さにあこがれた。
「いまの若い人はノマドとか呼ぶのかも。独立した生き方がかっこよかった」。実業団にいれば給料を得られるが、居心地の良さに安住しそうな自分を、あえて追い込んだ。
朝から一人、黙々と練習に打ち込んだ。その姿を見たマネジャーがつぶやいた一言が、その後の代名詞の由来になる。
「侍ハードラー」
■初心に帰った最後の4年間
アテネ、北京と2度の五輪の合間、05年の世界陸上ヘルシンキ大会で再び銅メダルを勝ち取った。日本人アスリートとして先頭を走り続ける影で、実は一度、引退を考えた時期がある。
北京五輪があった2008年の正月、1年を表す漢字1字に「締」を選んだ。すでに体は負傷がちで、成績は伸び悩んでいた。陸上人生の締めの一年に。だが北京が終わったころ、気持ちに変化が表れた。
走るって、楽しい。
しばらく忘れていた感覚だった。「できなかったことが急にできるようになったり、こうすれば良かったと気づいたり。それがおもしろくて」
プロに転向して以来、勝つために練習を重ねた。きれいな履歴を残したい。ずっとそう思っていた。
「でも、それがだんだんどうでもよくなってきて。せっかくこんなにおもしろいことをやってるのだから、やれるだけやってみようと」
以後4年間、楽しいから走った。「陸上を始めたころのモチベーションに近かった」。日焼けした顔をほころばせる。
■「五輪、十分に楽しんで」
かなわなかった4度目の五輪出場だが、自分の代わりに夢の切符を手にした選手たちには「人生で何回でもあることではないから、十分に楽しんで来てほしい」と声援を送る。
実は、純粋な気持ちで応援するのは初めてかもしれない。「いつかは俺が。きっと俺の方が」。常に出場する選手たちをライバル視していた。「口では『頑張って』と言いながら、そうではない。アスリートってそんなもの」。厳しい勝負の世界を生き抜いた人の言葉は、重い。
引退後、どうするのか。「いま関心があるのは、町づくりやコミュニティー再生。教育や医療に、スポーツを役立てられないかということ」と話す。
スポーツの社会的意義は「人々に感動を与える」と、よく言われる。「でも僕は、社会が今困っていることに、スポーツやアスリートが具体的に解決していけるような仕組みを作りたい」という。
競技生活半ばから、どうしたら陸上や競技者が社会に必要とされるか、考え続けてきた。震災後、いち早くソーシャル・メディアで国内外の競技者仲間に義援金を募り、子どもたちを勇気づけようと自らも被災地へ赴いたのは、そのためだ。
引退した選手たちの生活(セカンドキャリア)にも関心が強かった。自分と競って敗れた仲間たちは次々と引退していく。新しい仕事になじめなかったり、再就職に苦労したりする姿を目の当たりにしてきた。
企業が引退した選手の「その後」まで責任を持つ時代は、日本経済の不振とともに遠のくばかりだ。「勉強していないアスリートが悪いといえば悪いが、サポート体制もない」。現状への危機感が、次の挑戦へ背中を押す。
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為末さんはネットで自らの考えを発信するアスリートとしても有名だ。
ツイッターでは、走りの楽しさや努力する大切さを中心に、つぶやいている。競技者としての実績に裏打ちされた内容への共感は、スポーツ愛好者にとどまらず、フォロワーは10万人を超える。
ブログを書くようになったのは、プロ転向直後から。大学卒業時、陸上雑誌への寄稿を編集長にほめられた。「自分は文章がうまいのかも、とうれしくなって」
プロになって肌で感じたのは、競技する瞬間の姿だけで覚えられるスーパースターは、ほんの一握りということ。「僕は、走り続ける背後にある考えや姿勢と一緒に覚えてもらおうと思った」
ツイッター開始当初は「フォロワーを増やしてやろう」ともくろんだ。おもしろいことや有益なことをつぶやく人もいるが、自分は「良いことを言おう」と決めた。ただ、実感のこもらないつぶやきに、人は反応しない。「結果的に、途中からどんどん正直になった」
『子ども達が楽しそうに走っている。いつの間にあの道から外れたんだろう。僕は走りたくて走っていたはずなのに。いつもゴールだけ見ていたはずなのに、いつから観客が気になるようになったんだろう。涙が出た。一周してまたスタートラインについたような気分だった。走ろう、今度は自分のために。』
こうしたツイッター発信に注目した日本の小さな企画会社が、為末さんに「出版しよう」と提案した。今月発売された新刊「走る哲学」(扶桑社新書)は、そのようにして生まれた本だ。電子書籍版も出ている。
今回のロンドン五輪は、国際オリンピック委員会(IOC)が出場選手にツイッターなどでの発信を条件をつけながらも奨励している。
為末さんは、若いアスリートにもツイッターを勧める。時には痛烈な批判を浴びることもある。「それも訓練。いろんなことにタフになれるし、何より人とつながれるから」
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ためすえ・だい 1978年、広島県出身。身長170センチ。広島皆実高、法政大、大阪ガスと進み、03年に日本の選手としては珍しくプロに転向。世界陸上エドモントン大会で記録した日本記録47秒89は、今も破られていない。