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日本代表に欠かせない選手となった三都主アレサンドロ選手=上田潤撮影 |
独特のリズムのドリブルと、鋭いカーブを描く左足のキック。見た目もブラジルから日本国籍を取得した選手とわかりやすい。
韓国で開かれた東アジア選手権で、左ミッドフィールダーの三都主アレサンドロ(28=浦和レッズ)への声援は多かった。
02年3月に初めて日本代表入りし、ワールドカップ(W杯)日韓大会にも出場。韓国ファンにも強い印象を残している。
93年。高知・明徳義塾高の北村保夫・前監督(57)は、ブラジル・パラナ州にいた。サンパウロから飛行機で2時間ほど。マリンガというクラブチームの若手の練習試合をみていた。
明徳は野球や相撲などが全国級の活躍をしていたが、サッカーは高知県のベスト8程度だった。「核になる選手をブラジルから連れてこよう」と探しにきていた。
左サイドの選手がひときわ目立った。足が速く、左足のボール扱いが絶妙だった。フリーキック(FK)の曲がりも切れがあった。
試合後、宿泊先で話をした。16歳でアレサンドロ・ドス・サントスと名乗った。中学校卒業後は高校に行かず、プロを目指していた。
「日本に来ないか」と誘った。授業があり、練習は放課後だけ。全寮制で給料は出ない。グラウンドが芝ではなく土。環境の違いを説明し、「頑張れば、Jリーグから誘いがある」が殺し文句だった。
三都主は目を見て聞いていた。北村前監督には手応えがあったが、30分後にやってきた両親が「そんな遠くに行かせられない」と反対した。
翌日、三都主が来て、「行きます」と言った。母親は泣いていた。プロサッカー選手だった父親も複雑な表情だった。チームには移籍料1000ドル(約11万円)を渡した。
三都主は明徳で大活躍した。相手ゴールキーパーがFKの曲がりについていけず、よく得点になった。砂浜でのランニングは常に先頭を走った。
練習が休みになる試験期間も部屋を抜け出し、FKの練習をした。「絶対に全国大会に出て注目を集め、Jリーグに行く」という熱い思いを感じ、北村前監督は黙認した。Jリーグの試合日は監督部屋でテレビ観戦し、「ブラジル人は違うなあ」と、自らの将来を重ね合わせていた。
寮の食事には困った。白いご飯とみそ汁が食べられず、朝食のパンを他の生徒からもらい、昼と夜に食べた。日本語での会話は、3年時には問題なくなっていた。
3年間、全国大会に出られなかった。「ブラジルに帰るしかないのか」と悲嘆にくれる三都主に、北村前監督は練習を続けさせた。かつて静岡遠征をした時、清水エスパルスの関係者が注目していたからだ。
96年秋。清水から練習参加の誘いがあった。三都主は自費で清水に向かった。月々2万円ずつ支給された奨学金を使わずにためていた。97年に清水でデビュー。99年にはJリーグ最優秀選手に輝いた。01年11月、「ブラジル代表には呼ばれそうにない。日本代表でW杯を目指したい」と、日本国籍を取った。
「三都主にはハングリー精神があった。でも、街から遠く、遊ぶところもない寮住まいだったから今があると思う」。教職を退いた北村前監督は振り返る。
「1000円で食べ放題の焼き肉屋に時々行くのが楽しみな生活だった。全国には他にもブラジル人留学生はいるが、放っておくと脱線する例をたくさん聞いた」
02年W杯前、明徳を訪れた三都主の母親に北村前監督は「明徳に来て良かったでしょ?」と聞いた。かつて涙の別れをした母親は「ありがとう」と抱きついてきた。
ネルソン吉村、小林ジョージ、与那城ジョージ、ラモス瑠偉、呂比須ワグナー。ブラジル出身の日本代表は三都主が6人目になる。昨年のアテネ五輪(23歳以下)にも田中マルクス闘莉王(浦和)が出た。ブラジルの系譜は続いている。