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青柳 複雑な問題であるということはよくわかりますが、文化財保護、文化財制度には大きく分けて2つのやり方があります。1つは日本の国宝とか、あるいは、重要文化財というように指定主義、つまり、委員会をつくって、委員会がこの文化財は大切だからということで国宝であるとか、あるいは、重要文化財であるというふうに指定するやり方と、それから、もう一方では、ヨーロッパのように登録主義、あるいは、カタログ主義といいますけれども、文化財の全部をカタログ化していくということ。 どちらにも長短あるのですが、本来は指定主義というのは貧しい国が文化財を守っていかなければならないということで行う、キャンペーンの意味が非常に強い方法です。ですから、日本はまだ貧しかった時に、つまり、第2次世界大戦前ですけれども、指定主義という文化財のやり方を始めて、それが今でも続いている。 残念ながら、その指定主義の一番の目的である文化財を大切にしようというキャンペーンという意味で、今の日本の指定主義がどれだけ機能しているかどうかはわかりませんが、そのこともあって、現在、文化庁では登録文化財という、指定主義から少しカタログ主義、あるいは、登録主義に移行する制度も導入しています。 そのキャンペーンの中で、国際的なキャンペーンで有名なのが、皆さんもよくご存じの世界遺産です。これは危機に瀕している、あるいは、次の世代へ継承すべき人類の文化財を守っていこうということで、ユネスコが提唱をして、大変な成功を見ております。日本でも、ユネスコ協会をはじめとするさまざまな市民団体が盛んに協力している。そういうこともあって、おそらく前半のところで青木先生が話された、あのバーミヤンでの修復センターのようなものにも、日本のユネスコ協会が募金をして、そして、お金を出すことができるような成果を発揮しています。 そういう国際機関というもの、特にユネスコのキャンペーンの力というものは大変に強いわけですが、一方で、国際機関である国連の下部組織であるということで、どうも動きが、それほど敏捷でないところもあるのではないでしょうか。 そのことに関してプロイエッティ先生にお聞きしたいんですが、本日の前半の部分でもお話しいただきましたが、イラクで、あるいはイランで、直接的に国際協力ができて、文化財を守ることに協力すること、支援することができたと、そのあたりをもう少し具体的にお話し願えますでしょうか。 ●災害や戦争被害には迅速な対応が不可欠
プロイエッティ イラクのバグダッドでの話ですが、イタリア文化財省は、イラク経済封鎖中、第2次湾岸戦争前から北部モスルでの活動を行っておりました。モスルは、昔アッシリア王国の首都だったニネヴェです。私たちは、2003年の1月31日まで、つまり戦争が勃発する1カ月前まで現地で活動していたのです。 そして、アメリカ軍が制圧した後、6日後に再びイラクに入り、すぐにバグダッド国立博物館内で作業を始めました。博物館は3日間ほど一切守られていませんでした。イラク人職員と大英博物館の考古学者とともに、私たちは1カ月バグダッドに滞在し、略奪された作品のリストを作成しました。かなり危惧していたのですが、略奪された作品の数は想像していたほど多くはありませんでした。なぜなら、イラク人職員たちが、戦争が始まる前に展示ケース内の美術品をできるだけ避難させたからです。あまりに重くて簡単には運べないもの、動かすと壊れやすいものはそのまま残しました。例えば、ニムルドの象牙のようなもので、これらは、案の定略奪されていました。 さて、略奪された美術品の検証とリストづくりに平行して、イタリアチームは荒らされた修復ラボラトリーの代わりとなる新たなラボの開設計画を作成しなければなりませんでした。考えてみてください。わずか3日間で、修復ラボと図録資料室から、電気機器はもちろん電線からスイッチ、扉、窓ガラス、家具類にいたるまで、すべてが運び出され盗まれていたのです。私たちはただちに新たな修復ラボの復興計画の作成に取り掛かりました。換気ファンから配線、水といった、ラボの基本的な器材もすべてを初めからそろえる必要がありました。 そんなとき、この新しい修復工房のために、イタリアは15万ドル、日本も100万ドルを拠出するという情報を得たのです。ユネスコの松浦事務局長が、ここ東京でイラク救援会議を開催し、日本とイタリアの分担を決めることにしました。すばらしいコーディネートが行われて、日・伊の合意のもとで、既に活動を始めていたイタリア側の予算は、緊急を要する修復に、一方、日本が拠出した100万ドルは、大型修復ラボの建設に使われることが決められました。 こんな風に具体的に分担を決め、イタリア側は、緊急を要するものから活動を始めることにしたのです。まず、バグダッドで特別研修コースを開き、15人のイラク人修復技術者の養成にとりかかりました。2004年の末には、安全を期して、このコースをバグダッドからアンマンに移しました。 私たちが去った後、研修したイラク人修復家たちは自主的に修復を始めました。2カ月前、私が再びバグダッドを訪れたとき、博物館では私たちが養成したイラク人の修復家たちが、盗まれた後戻ってきた自分たちの美術品を、見事に修復していました。 国際協力の基本は、こんな具体的な、地に足のついた活動なのです。イタリア政府の拠出金は、バグダッドの博物館の展示室の一部、アッシリアギャラリーやイスラム時代展示室などの、中核となる展示室を再開するためにも使いました。イラクの北部、ハトラの彫像類が展示される柱廊部分、そして当分再開できない展示室の重要な作品をローテーションを組んで見せる仮設展示室にも予算を使いました。その中には、イラク中央銀行の金庫に預けていたニムルドやアッシリアの金細工美術品などがあります。中央銀行自体は直接爆撃を受けたわけではないのですが、間接的な被害は受けています。近隣に幾つかのミサイルが打ち込まれた後、水浸しになってしまったのです。アメリカ軍は、ミサイルのことをちょっとした外科手術だと言っていました。 同様の国際協力がイランのバムでも始まっています。これもやはり第三国における日・伊二国間の協調協力の実例です。2003年12月26日の地震で、バムの要塞都市は壊滅状態に陥りました。まず、パリのユネスコ本部のような国際組織で、保護救援の方針を話し合いました。最も被害が大きく、ほぼ全壊した記念物の要塞を元通りに再建するのか、それともイタリア流の修復の基本に従い、地震後残ったものを、これ以上崩壊しないよう安定させるだけの必要最低限の措置ですませるのか、つまり、要塞の基本構造部を地震の前の状態に戻すか戻さないか、最良の方策を議論したのです。 話し合いは長引き、地震から2年たった今も、なんら具体的な保存活動が行われておりません。 その間、イタリアはイランと協力して、修復モジュールのモデルにもなる要塞のメーンの塔の修復計画をつくり上げました。昨年12月初め、私は、イタリア代表団として再度バムを訪れたのですが、そこでイランの人から、日本政府が、バムで活動しているイラン観光文化財局のオフィスに対して、復興に必要な機材を購入するための資金を拠出してくれたとういう情報を得ました。 その後、日本とイタリアとイランの三国で、互いに重複しないように調整した最良の救援措置を話し合って定めることにしたのです。 もちろん、ユネスコのような国際機関が行う活動が基本ではあります。しかし、大災害や戦争が起こったあとは、いつでも柔軟かつ臨機応変に即時緊急支援を実施しなくてはいけないのです。今後は、日本とイタリアのような二国間の協力を強化することにより、即時支援という形で国際社会に大きな貢献ができると確信しています。 青柳 非常に迅速に対応ができるということでございますが、青木先生に一つお聞きしたいのは、先ほど津波のことで、特に保存文書の修復についてお話がございました。実際に津波が起こって、そして、専門家が現地に行くまでの過程で、文化庁なり関係省庁とどういうふうに交渉をして、実際に人員を派遣するまでの手続きはどのように行ったのか、その辺りを少しお話しいただければと思うんですが。
青木 アチェの津波のことですが、即座に活動するために、トヨタ財団からお金をいただきまして、国会図書館や東京外国語大学の人たちと、五人委員会という私的な団体をつくりました。とりあえずその私的な団体の中で動いていき、最終的な受け皿は東京外国語大学になっていただきました。第1弾の派遣は、そのトヨタ財団の資金で行きまして、応急処置を向こうに指導して、実際、私たちも応急処置をやってきたということです。 第2弾として、文化財保護振興財団と文化庁のほうから資金をいただきまして、インドネシアのジャカルタとアチェで文書の修復の講習会を開いております。講習会は大体3週間ずつ開きましたが、計2回開いておりまして、来年度は、そのうちの何人かを日本にお呼びして再研修をする、より深い研修をするということで動いております。 それから、先ほどプロイエッティさんからイラクの話が出ましたが、そのとおりです。スライドでもお見せしましたが、今は日本政府がラボ建設のために100万ドルを拠出しています。実際の修復にはラボのさまざまな機器が必要なわけですが、日本政府がその100万ドルの中から、顕微鏡などの機器、修復に当座必要な基本的なものを供与しております。それに伴って、日本でもって研修をしています。今後インフラ整備ができた場合には、X線撮影装置や分析機器まで視野に入れているということだと思います。 それから、アフガニスタンにつきましては、当初ユネスコが動く前に、私どもの研究所と文化庁の職員が1カ月後、向こうへ行きまして、アフガニスタンの意見の吸い上げをして、どういうことができるかということを検討しております。その後、ユネスコを中心にして事業内容の調整が行われ、カブールでの仕事と、それから、バーミヤンでやる仕事が明確に分けられ、イタリアやドイツとの仕事の範囲が明確になり、ユネスコの協力も得て事業を進めているところです。
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