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司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界
【基調講演】山折哲雄氏(2)
テーマ「司馬文学における『街道をゆく』」

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山折哲雄氏

 例えば、ニューヨークを歩いている時に、いろいろな方面からいろんな人種、いろんな人間の使う言葉が聞こえてきたり見えたりしてくる。黒い肌から白い肌まで、英語からスペイン語から、アジアの様々な諸言語まで。ありとあらゆる人種と、ありとあらゆる言語の洪水の中で、自分はだんだん孤独になっていく。孤独になっていくけれども、いつの間にか、平然とニューヨークの街を歩いている自分を発見したと。それはなぜかと考えていたら、ハッとわかったと言うんですね。

 ああ、自分の背中には、日本列島における1000年の文化の積み重ねがあったんだ。そう思った時、あのニューヨークの、まさに国際都市のど真ん中を、たった1人で歩いていても、少しも本当の意味での寂しさは感じることがなかった。そういう意味のことを言っておりますよ。そこは読んでいて非常に気持ちのよくなるところであります。

 ところが、その「アメリカ素描」で、アメリカに行かないかと誘われた時のことを書いておられますが、自分の子どもの頃からの関心というのは中国だったというんですね。中国の歴史と文化と文明というものを考えるのが自分の子どもの時代からの娯楽だったとまで言っています。それほど中国が好きだった。しかし、それは必ずしも中国自体が関心の中心だったということではない。周辺の小さな国家群の存在や歴史が、自分のもう一つの重要な問題、関心だったと。

 朝鮮半島が、日本が、モンゴルが、ベトナムがそうだと言っております。中国という大国家に対する周辺の小国家群と、その相関的な関係というものは、自分の娯楽のような楽しみのある研究対象だったと。そう思って何十年も生きてきた自分にとって、今さらアメリカに行って何かを書けと言われてもその気になれなかったと。その気持ちは、分かります。声をかけられてからアメリカに旅をするまでに、4年間の時間がかかったと、非常に印象的なことをお書きになっております。

 実は、私がこの紀行の中で一番関心を持ちましたのは、残念ながらニューヨークでの紀行ではございません。西海岸のサンフランシスコに行った時のお話であります。サンフランシスコは、明治に入り日本人の移民が大量に移住したところです。日系1世、2世、3世……。もう4世の時代でありますけれども、多くの我々の先輩たちがあそこで苦労し、労働し、そして死んでいった。そういう1世、2世たちの亡きがらを葬った墓地がサンフランシスコにあるんですね。コルマというところですが、私もそこに行ったことがあります。

 広大な丘にたくさんのお墓がある。大小様々なお墓であります。成功した方々のお墓もあれば、無名のお墓もたくさんございます。司馬さんはそこに足を運んでおられます。どこに注目をされたか。3人の無名の日本人のお墓の前に行って、しばし思索にふけっておられた。その極めて印象的な文章が出てまいります。

 その3人の無名の日本人とはだれか。1860年、幕府の軍艦である咸臨丸が、この地にやってきます。乗船していた多くの上官、士官たちは仕事を終えてそのまま日本に帰るわけですが、何人かの水夫、釜たき水夫がその地で亡くなる。咸臨丸と日本に帰ることができなかった無名の庶民が、3人が、そこにまつられていた。その前に立つんですね。

 この咸臨丸に乗っていた艦長が、ご承知のように勝海舟であります。乗船していた人間の中に福沢諭吉、中浜万次郎といったような人々がおります。その後の日米関係、日本の近代化に極めて重要な役割を果たした人物たちが乗っておりました。ペリーが黒船を率いて浦賀にやってきてから、わずか7年後の、太平洋を渡る壮挙だったんですね。

 帰ることができずに、かの地で亡くなった水夫の名前がわかっております。その墓地に刻みつけられていたわけです。1人が長崎出身で2人が香川県の塩飽列島出身。峰吉、富蔵、源之助という名で、3人とも20代から30代の若者であります。

 そのお墓の前に立って、司馬さんは沈痛な面持ちでお考えになる。それを文章にしております。ペリーさえ日本に来なければ、彼ら3人もサンフランシスコで死ぬこともなかったろう、と。3人の無名の日本人の墓銘碑を刻むような気持ちでお書きになっている。

 私は、司馬さんの旅の仕方に、この時も胸をつかれました。

 今日、司馬遼太郎といいますと「国のかたち」という言葉と対になっていろいろな方面の方々に語られるようになっております。日本の国のかたちをどうしたらいいのか、という問題につきまして、国論を二分するような議論が巻き起こっているのはご承知のとおりであります。

 しかし私は、司馬さんの本質というのは、その国のかたちを考えた、考えに考え続けた方だとは思いますけれども、その根底に、まず「人のかたち」を追い求め、新しい人のかたちを発見し、そこから何事か大事なことを紡ぎ出そうとした、そういう思想家だったと思いますね。

 司馬さんの「街道をゆく」という仕事の中心的なテーマだったのは、人のかたちを追い求めて、いまだ知られざる、歴史上発見されざる、様々な無名の人々の足跡を追う。そして、人々の心の中に刻まれていた様々なかたちというものを、つまりイメージというものを、思いというものを明らかにする。明らかにして自分自身と対話を重ねていく。そういう種類の旅ではなかったかと思うんですね。

 司馬さんの作品の中で私の好きな作品はたくさんございます。様々な魅力ある作品の背後に、自分の足で歩く行為、歩く行動というものがあった。だから、あれだけの魅力的な物語文が作り出されることになったのではないかとも思います。

 私は学生時代から宗教を勉強してきた人間です。インドにたびたび行きます。参りますたびに考えるのは、あのブッダが生涯どのくらいの距離を歩いたかということであります。

 誕生地のルンビニから、伝道活動をしたガンジス川の中流域まで、片道500キロであります。少なくとも生涯2度、ブッダはその間を往復していると私は推定しています。そうすると、2000キロ歩いているんですね。飛行機も汽車もバスも自動車もない時代です。自分の足で歩く以外になかった。

 同じように、イエス・キリストはどのくらいの距離を歩いただろうか。10年前、ちょうど司馬さんと対談をさせていただいた時、その年にイスラエルに参りまして、イエス・キリストがたどった道をバスに乗ってたどったことがあります。

 ナザレという、少年時代を送ったところから、ガリラヤ湖に出て、エルサレムまでの距離でありました。これは片道ですね。エルサレムのゴルゴダの丘で十字架にかかって殺されるわけですが、ナザレからエルサレムまで150キロ。

 キリスト教と仏教。キリスト教文明と仏教文明。そういうものを比較するためには、ブッダの歩いた500キロ、イエスの歩いた150キロを比較する必要があるのではないか、そういう思いにとりつかれたこともございます。

 そして、改めて司馬遼太郎という作家が世界のさまざまの街道を歩きに歩いて考え抜いたことの意味を、私なりに再生して、反省して考えてみますと、歴史は大いなる仕事をした人に同じような試練を与えるのではないかという気さえするわけであります。

 京都から新幹線に乗ってまいりまして、東海道53次の500キロですね。私は歩くことができなかった。残念に思いながら、私の話を終わらせていただきます。最後までありがとうございました。(拍手)


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