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司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界 |
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リービ英雄氏 |
加藤 ありがとうございました。辺境の少数民族の中に内包されている悲哀、そこに司馬さんの目も注がれていたのではないかという話、大変魅力的でした。そういえば「台湾紀行」にも確かに「悲哀」という言葉が出てきます。リービさん、お待たせいたしました。
リービ 僕は一番詳しくないから、やや短めに(笑い)。一つはおもしろい、もう一つはすごく感動したという話をさせていただきたいと思います。
すごくうれしかったのですが、「街道をゆく」ビジュアルシリーズの最終回の「ニューヨーク散歩」の関係で頼まれて、去年の秋、久々にニューヨークへ行きました。
僕自身はプリンストン大学に20年近くいました。ニューヨークのすぐ近くだから、ニューヨークは知っているつもりでいました。だれかの本でニューヨークについて新しいものを学ぶということは、たぶんないと思っていました。でも、この本を読みながら行ったら、全然違ったニューヨークが、そこで浮かびあがってきました。
具体的に言うと、たとえば、この中に(日米修好通商条約の)タウンゼント・ハリスの墓のことが出てきます。普通のニューヨーク論にはまず出ない。もう一つ、「ニューヨーク散歩」では何とコロンビア大学が、分量の4分の1ぐらいを占めています。アメリカ人が書くニューヨーク論では、コロンビア大学はまず、50分の1とかその程度ですね。
すごく驚いたんです。コロンビア大学を考えると、昔はライオネル・トリリングという批評家がいた。パレスチナ系アメリカ人のエドワード・サイードという西洋文学の有名な批評家がいた。日本研究は、もちろん、ドナルド・キーンさんという大変な学者が築き上げたけれども、アメリカ人がコロンビア大学を考えるとき、決して「日本研究」を中心には考えないのです。
でも司馬さんはコロンビア大学にこだわっている。実は、戦前に角田柳作先生という日本から渡った学者が「日本学」を築いた大学です。初めてアメリカという外部で日本像というものが厳密につくられた初めての場所がコロンビア大学なわけです。で、司馬さんはニューヨークへの紀行のクライマックスとしてそこへ行くんだ。日本の内部における日本像と、外部における、つまり、外の人たちが、あるいは、外へ行った日本人が見る日本像を、ある種のクライマックスにまで持っていく。
僕は、ニューヨークというものはちょっと別個のように考えていました。別の文明、別の輝かしい文明というふうに。ニューヨークと日本を行き来していながらも、そういう先入観があった。でも、僕の先入観は全く破壊されちゃったんですね。
おまけに、彼が実際に歩いたところを自分で歩いて、偉大なる紀行を意識しながら、自分の小さな紀行をつくる……。これはビジュアルシリーズでの非常におもしろいところでした。
もう一つ。日本語に限らず、僕が今まで読んできたいろんな言葉で書かれた紀行、体験記の中で、最もドキッとさせられたものがあります。それが「長安から北京へ」という紀行文です。最近、中国へよく行くんです。自由にあちこち回ることができる。ほとんどだれとも話をすることができる。自由に体験し得る領域として、特にこの10年、中国がすごく変わってきています。僕を含めて何人かがそれを体験しています。
でも、司馬さんが行ったのは、確か75年ですね。文化大革命時代の末期のころで、全く管理された旅行。今にたとえるなら北朝鮮紀行を1人の文学者が試すような、全く管理された旅行の中で、さて、どれぐらい見えるかということを彼が試したわけですね。
その緊張感が、読んでいて本当にすごいと思った。すごいというのは、1人の歩く人とその世界との関係が、ふだん考えられないような壁があちこちにある中、とにかく垣間見ることによって何かを語る。
たとえば、ホテルの中の細かいディテールとか、列車の中の様子とか、そのようなものです。ほとんど英雄的な営為ですね。あそこまで書けた、あの時代にそこまで書けたということがです。
彼の手法、メソッドですが、先ほどモンゴルの話も出ましたが、何か小さなものを見て、たとえば中国における中央民族と周辺民族の1000年に及ぶ歴史の方へ、想像力が走るわけですね。勝手に走るんじゃなくて、厳密なディテールを持って想像が走って、また戻ってきて列車に乗る。それをずっと繰り返す。基本的にこれが「街道をゆく」と同じような、ものすごいボルテージの高いものなんです。
さて、この「長安から北京へ」の最後に、北京を離れて帰国する前に、人民大会堂、あの天安門広場の非常に物々しい建物で、政治局、ポリティー・ビューローの幹部が呼んでるから、あなたたち、あいさつに行きなさいと言われるわけですね。会った時に余計な話をするな、あいさつですから……。これはとても怖い経験のように描かれている。夜、連れていかれるわけですね。
後で分かったことですが、この重要人物というのは文革を起こした人で、4人組の1人。考えてみると、自由自在にものを見て書く文学者にとって、最も苦手なあいさつの相手だと思いますが、それを果たした。果たした時に、司馬遼太郎の頭の中に何が出てきたかというと、遣唐使が奈良時代に長安へ出向いて皇帝にあいさつをすることだった。で、モンゴル人も朝鮮人もチベット人もそれを描いているわけですね。
この怖い体験から、1000年単位の想像力に走るわけです。ジャーナリズムと違う、普通のノンフィクションとも違う、かといって、私小説とも違うんですね。
僕は今まで読んだ世界中の言語によって書かれたいわゆる旅行記の中で、一番ドキッとしたものの一つとして心に残っている。今、ピョンヤン紀行をやらない限り、僕らは体験できないことなんですが(笑い)。そのような文章を書いた作家として、司馬遼太郎が僕の心の中で非常に大きな存在を今でも持って、インスピレーションを与え続けているわけです(拍手)。
加藤 ありがとうございました。全43巻の「街道をゆく」では、中国大陸については、福建省を歩いた「中国●(●は門構えに虫=びん)のみち」と、「中国・蜀(しょく)と雲南のみち」、先ほどの壁が世界一美しいという蘇州を含めた「中国・江南のみち」の3冊でした。今のリービさんのお話を聞いていますと、リービさんが最近、河南を中心に歩かれているというのは、ひょっとして、司馬さんがもう1回中国に「街道をゆく」で行くとしたら、その辺を歩かれていた可能性というのが……。
リービ よく、今司馬さんが生きていたら何をしているのか、今いらっしゃればどういう質問をすればいいのかと考えるんですね。司馬さんが亡くなったあと、中国はすごく変わった。100年遅れて本格的な近代化に入った。
もしかしたら中国政府も把握し切れないほど加速的です。たとえば、僕が中国の田舎へ行くと、自分の話で恐縮ですが、こういうことがある。さっき壁の話がありましたが、最初北京を見た時に「石の京都」と言ったんです。壁がすごく美しかったのです。けれども今、地方都市などへ行くと、まだれんが、石の壁が5、6年前まで残っていたのが、今は全てが破壊されて、オレンジ色、ピンク色のマンションが建っている。
「カリフォルニア億万長者ヴィラ」とか(笑い)。これは日本が20年、30年前に経験したことでお分かりかと思います。そのペースがすさまじい。司馬さんが生きていたら、たったその破壊をどう思うか、僕は聞きたいですね。
加藤 同感であります。時間が限られておりますので、次のお話を伺いたいと思いますが、また真野さんからだと後で怒られそうなんで……。
真野 よかった。
加藤 鹿島さんに口火を切っていただきたいのですが。私も旅に行く時に「街道をゆく」の関係個所をあわてて読んだり、時には文庫本をかばんに入れたりというふうにしているんですけれども、読むたびに新しい発見がある不思議な作品だと思うんですよね。自分の関心が、その都度違っているからだとも思うんですけれども、くめども尽きぬ泉のような作品だと思います。
この「街道をゆく」という作品群の中で、司馬さんが何を伝えたかったのかとか、あるいは、現代に生きる私たちに何か問いかけてくるものといったことについてお話しいただけますでしょうか。
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鹿島英雄氏 |
鹿島 司馬さんの「街道をゆく」は、どこから読んでもいいのですが、簡単なのは、一番自分に親しみがある場所のことが書いてあるページを開いてみることです。そこから始まるわけですね。
私の場合、仕事場が神田神保町のすずらん通りにあります。勤めている共立女子大は一ツ橋です。じゃあ、そこを読んでみようということで「神田界隈(かいわい)」を読んでみたら、私の全然知らないことが書かれていて、アラッと思ったんです。
共立女子大は明治19年に創立されました。あの辺には、明治のころから大学がたくさんあって古本屋がたくさんあったことはだれでも知っています。司馬さんは共立女子大のことを挙げるのに、正岡子規の妹、正岡律という人を出します。
「坂の上の雲」を読まれた方は分かると思います。正岡子規が「病牀六尺」の中で、わがまま放題、当時にしてはぜいたくなおかずや大福を一人で食べまくって、妹とお母さんがひもじい思いをしても知らん顔。それなのに、妹のことを、やれ器量が悪いとか、性格が悪いとか、悪口ばかり書いていて、ひどいやつだなと思います。
その妹の律さんが、子規が死んだ翌年に34歳で共立女子大の前身の共立女子職業学校に入学します。裁縫の教員になり、生涯を終えるのですが、そういうことを全然知らないでいたわけです。「ああ、こういうこともあったんだ」と思いましたね。神保町界隈になぜ正岡子規が登場したかというと、子規は陸羯南(くが・かつなん)が主宰していた「日本」という新聞社に勤めていました。それが、神保町の近くにあったんですね。
司馬さんが神田を好まれたのは、たぶん、町名が残っているからです。神田神保町、神田錦町とか、頭に「神田」がついている。こういう残り方をしているのは、神田と日本橋だけですね。あとは町名破壊されてしまった。だれが考えたか知らないが、昔のよい名前を片っ端から、味気のない、何とか2丁目とか3丁目に変えてしまっている。名前が呼び出す一つの地霊といったらいいのでしょうか。「ゲニウス・ロキ」。そこに司馬さんは反応するわけです。
地霊と同時に、呼び起こされてくるのが人名です。地霊と人名という非常に具体的なもので、司馬さんは思考を発展させ、イメージを膨らませ、二つの間の関係性をたぐり寄せ、時代と雰囲気までを呼び覚ますわけです。
司馬さんは常に、具体的な人間の、具体的な経歴を語ることによって、その地域全体を、時代全体を語る。「街道をゆく」はまさに、小説家の想像力の紡ぎ方が、非常にうまく生かされた大変素晴らしい読み物です。
彼の想像力の原点は、人名と地名という二つのものです。僕は今、日本で一番失われているのはこの二つではないかと思う。つまり固有名詞というものです。今の日本の若い人に、知っている固有名詞をできる限り書きなさいといったら、いくつ書けるか。今の若い大学生なんかは、そうですね、20個ぐらいで終わっちゃうんじゃないでしょうかね(笑い)。自分が両手を広げて、ぐるぐると回して届く範囲にしか関心がないから。
だけど、社会はそういうものじゃない。人名と地名。この二つが、人の人生とか生涯にかかわってくる。この要素を軸にして彼は人間の生き方とか人生を書く。だから「街道をゆく」を読むと、司馬さんの想像力のあり方というのがとてもよくわかる。そんなところです(拍手)。