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徹底討論「ジャーナリズムの復興をめざして」
【討論(前半)】新聞ジャーナリズムは機能したか(1)

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会場風景

 村松 立花さん、どうもありがとうございました。

 大変に多様で多岐にわたる論点が提示されましたが、一つ見えてきたのは、やはり新しいデジタル情報化といいましょうか、この大技術革命が、20世紀の代表的メディアであった新聞ジャーナリズムをどういうふうに変えていくのか、変えていかないのか、あるいは、新聞ジャーナリズムを含むメディア全体がもう大きく変わっていく、その問題と、もう一つは、日本のジャーナリズム、伝統的ジャーナリズムが本来果たしている機能が十全であったかどうか、あるいは、これからもそうであるのかどうかと、この2点だろうと思うんですね。

 まず最初に、前半の問題について、外岡編集局長のほうから、立花さんの問題提起に対するお考えをうかがうというところから始めましょうか。

●権力・世論の監視役を再確認

 外岡 ゼネラルエディター(GE)という仕事は今年の4月からできまして、以前は編集局長というのは1人が担当していたんですが、今年の4月からゼネラルマネジャーと、あと、ゼネラルエディターという2人の体制になりました。

 簡単に申し上げますと、GEというのは紙面を担当するということで、先ほど立花さんのお話にあった取材、編集、そして、解説、整理というそこの部門を、いかに日々高めていくかということに専念するようにという趣旨で、今年からできた職種でございます。

 おそくなりましたが、きょうは平日暑い中、これほどたくさんの方にお集まりいただいてありがとうございます。それから、立花さんも、こういう重いテーマを引き受けてくださって、大変ありがとうございます。感謝しております。

 最初に一言申し上げますと、私は77年にこの会社に入って、来年で30年になるんですが、新聞記者になろうと思った一つのきっかけが、立花さんがお書きになった「田中角栄研究」。その前に、アメリカで当時ウォーターゲート事件というのがありまして、先ほど立花さんが引用されていたベンジャミン・ブラッドリーというワシントン・ポストの方が編集の責任者だったわけですけれども、そこで2人の記者(ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン)がニクソン大統領を追い詰めていく。日本では立花さんが田中さんという最大の権力者を追い詰めていく。その報道ぶりを学生時代に目にしてまして、私もそういう仕事をいつかできる日があればという思いで入社してこれまで来ました。

 ということで、私にとって立花さんというのは、ずっと先を行くパイオニアという存在で、これまでずっとそのお仕事ぶりを拝見してきました。

 きょうここで、その立花さんに問題指摘をしていただいてお話ができるというのは、大変光栄に思っています。どうもありがとうございます。

 先ほどのお話ですが、幾つか非常に重要だなと思う点がありました。

 一つは、「ジャーナリストの条件」ということで、取材力、筆力、眼力、そして、バランス感覚と、これだけの要素、能力を持った人間がどれだけいるのかと、それが基本的な問題じゃないかというご指摘があったかと思います。私はこの四つを考えてみて、正直なところ、この条件に適ったジャーナリストが、自分を含めて今どれだけこの組織にいるのかというのは、非常にじくじたるものがあると思いました。

 とりわけ、立花さんがおっしゃっていた眼力ですね。「広く、深く、遠くを見る力」、そして、それと位相が違うけれども、「ウラ側を読む力」。私も常々このことを考えさせられることがあって、やっぱり歴史と世界、それを常に視野に置いて見る。そして裏側、つまり、からくりを見抜く力、これをやっぱりジャーナリストというのは常に身につけなくちゃいけないんだなと思います。

 この四つで、きょう定義していただいた、これが多分、組織内、組織外を問わず、ジャーナリストの基本だろうと、基本的な資質であろうと思いました。

 そして、もう一つ、非常に大きな、組織ジャーナリズムにとっては厳しいご指摘だと思うんですが、実は日本のマスメディアというのは「40年体制」をそのまま引きずっているのではないかと、そういうご指摘がありました。これはある意味で非常に深い、そして、鋭いご指摘だと思うんですね。

 私もアメリカとヨーロッパ、イギリスのメディアを見ていて一番大きく感じるのは、やはり個人としてのジャーナリストがどれだけ組織と独立して、権力と距離を置いて向き合っているのかと、そういう個人の立場というものを、我々は、実は見失いがちではないかということを感じておりましたので、きょうのご指摘は大変耳に痛く響きました。

 具体的には「記者クラブ」という問題で、立花さんがおっしゃいましたけれども、これは制度の問題というよりは、そこで出てきた「上からのタレ流し」を相互管理しながら、実はそのまま報じているのではないかというご指摘に対して、やはり我々は、もっとこの問題を真剣に考えなくてはいけないなと思いました。

 その具体例として、「小泉報道」「イラク報道」というご指摘がありました。これについては、またこれから先、お話し申し上げたいと思うんですが、まずは、非常に原則的なところで、ジャーナリズムというのは権力を監視する、権力をチェックする、そして、権力だけではなくて、世論の暴走をもチェックしなくてはいけない。これは多分、立花さんが最近おやりになっている近代史、現代史を振り返るお仕事の中で、改めてお感じになったことではないかと思いますが、その面について、我々はどこかで世論に対するそういうチェック機能というのを忘れているのではないか。むしろ、どこかで迎合しているのではないか。

 それが、実は「世論」と、世論というのは括弧つきの「世論」だと思うんですが、そこと、権力を持つ側が一体となって醸し出しているメディアの環境、それにメディアがすり寄っているのではないかという反省を、今、改めて感じているところです。

 立花さんのお話の要約のようになってしまいましたが、とりあえず私の受けとめ方として、以上のことを感じましたので。

 村松 立花さん、いかがですか。

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立花隆氏

●メディアは権力の「シラミ」になれ

 立花 今のお話をうかがっていろんなことを感じたんですが、そんなに時間がないもので、相当この話を絞らなきゃいけないと思うんですが。メディアと権力の関係といいますか、実際にウォーターゲートの取材でアメリカへ行って、ブラッドリーやその他の人と話して、ものすごく感じたこと、それは、その後、そのほかのいろんな現象の中で、日本とアメリカのジャーナリズムのいろんなところに強く現れてきた時に感じたことなんですが、権力、やっぱり権力とメディアというのは、常にある種の拮抗関係に立つわけですね。そうすると、取材の先端にいて、まさに権力を、それ自体を構成している具体的な人との対人接触の現場に立たされる人がいるわけです。

 例えば、ブラッドリーその人がまさにケネディ大統領を取材する関係があったんですね。そうすると、彼自身の経験談を聞いても、やっぱり記者としてそこまで話を聞いた以上、これは書かなきゃいけないみたいなことで書いちゃうと、この人間関係が悪くなったりする。いろんなことが起きたと。

 そういうことを踏まえて、基本的にジャーナリストと権力の内部にいる人間の、最も健全なというか、あるべき関係というのは、どういう関係なんだろうかと、そういう質問をしたわけですね。

 そうしましたら、彼は、それは「ラウジーな関係」だと、シラミ的な関係であると言ったんですね。それで、最初はその意味がよくわからなかったんですが、要するに、権力者その人にとっては、メディアの人間というのはシラミみたいなもんですよ(笑)。しょっちゅう頭とか、もうあっちこっちちくちく刺して、これはもうたまらんわけですね。頭をかきむしりたくなるような、そういうやつであるわけです。

 やっぱり、ジャーナリストと権力の当事者のいい関係は、そういう関係であらねばならないというのが彼の意見なんですね。

 日本のメディアの最先端で、朝日の記者も政治権力者その人のそばで、その人の肉声を聞く関係にあるわけですね、取材する関係があるわけです。

 その人たちが、本当にあるべき関係はラウジーな関係であると。自分がシラミにならなきゃいけないんだという自覚のもとで取材して、そのシラミの「ちくちく」みたいなことをちゃんとやっているかどうかという問題ですね。

 だけど、日本のそういう取材の最先端の現場にいて、権力そのものに接している人たちが基本的にやっているのは「よいしょ」なんですね。基本的にラウジーじゃなくて「よいしょ屋さん」なんです。それがあらゆる場面でそうなっちゃうんです。

 それは、記者クラブがあると、その記者クラブがそこにはめ込まれた関係といいますか、その取材の相手のニュースソースとの関係を悪くしないためには、いい情報を取るためには、やっぱり「よいしょ」してれば、大体日本ではみんな喜んでいろいろサービスしてくれるという、そういう国民性がありますから。だから、つい新聞記者も「よいしょ」が中心になるわけですね。

 だから、イラク戦争のいわば従軍記者たちが、イラクの戦争に行った自衛隊がやってることはご立派みたいな、そういうことしか書かないわけですね。

 そうじゃなくて、そこの現場にいるその記者じゃないとしても、少なくとも本社にいて、もうちょっと幅広く、深く見ている人は、そこで違う情報を違う形で出さなきゃいけないわけです。

 そういうものがいろいろ出されて、そのトータルとして、その会社全体がバランス感覚を持った報道をしたかというのは、そういうところにあると思うんですね。

 先ほど言った、個々のニュースの断片を猟犬的に取る記者以外に、やっぱり後ろ側で引いて、いろんな猟犬が拾ってくるものを一つのお皿の上にどういうふうにうまく載せるかという、そこが本社の機能ですよね。まさにそのゼネラルエディターというか、その人たちがやることだろうと思うんですが、そこが、あの報道において基本的に欠けてた。

 それで、やっぱり同じことが小泉政権の報道においてもあって、もうちょっと本当は小泉政権のあり方、あの政策、そのあらゆる面について、もっと「ちくちく」がたくさんあるべきだったんですね。だけど、どんどん「よいしょ」中心になっちゃって、ほんとによいしょのまま来たから、今のような状態になっていると思うんですね。だから、そういうところが一番欠けてた。

 先ほどの外岡さんの最初のコメントで、ジャーナリスト個人の能力がどうのこうのという話がありましたが、僕はジャーナリスト個人の能力以上に、組織としてのそのメディアが持っているパワーといいますか、それが必要なんだろうと思うんですね。

 それは、その個々人の能力の問題以上に、個々人の能力を全部総合して一つのメディアとして報道という大きな仕事をやっていく、それをやる体制そのもの、その中におけるバランス感覚みたいなもの、それがやっぱり相当欠けてた面があるんじゃないかと思うんですね。

 ウォーターゲート事件について言えば、あの時、ワシントン・ポストの女社長キャサリン・グラハムが、政府とものすごく厳しい関係に立った時に、ブラッドリーを通じて彼女に、「おまえをそのうちプリズンにたたき込んでやるぞ」みたいなことを向こうが言うわけですね。そうしたら彼女は、「それじゃあ、私はリンカーンに乗ってプリズンに乗りつけてやるわ」ていうね、それぐらいのたんかを切るわけですね。

 そういうふうな、つまり、日本のメディアはその気概が今、抜けてるわけですね。だからこそ、何か紙面における緊張関係というものが相当抜けちゃってるところがあると思うんですね。

 そこは個人の問題というよりは、むしろ組織全体が毅然として、メディアが今果たすべき機能は何であって、それを自分たちが本当に果たしているという確固たる自信があれば、もうちょっと堂々といろんなことが書けたんじゃないか、そこが相当抜けた面があったんじゃないか、そういう感じを持ちました。


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